『こどけん通信』=「こどもたちの健康と未来をまもる情報マガジン」に掲題の記事が載りました。
2011年、福島第1原発事故が起きた際に福島から両親と共に新潟県に避難してきた曽根俊太郎さんは、高校生時代に「高校生平和大使」に選ばれ1年間活躍しました。
現在は大学生として学業に励んでいますが、その傍ら「脱原発」の活動にもタッチされています。
そんな中での思いを上記マガジンの『あのとき胸にしまった言葉を いま紡ぐ』のコーナーにつづりました。原発事故に遭遇されたのは大変な災難でしたが、〝人徳″とでもいうべきでしょうか、そうした中でもとても有意義な人生を送ってこられたことが分かります。
余計な形容詞などを一切用いずに、簡潔に書かれた実に見事な文章です。どうぞご一読ください。(ブログ担当が文字起こしをしました。もしも誤字等があれば担当者の責任ですのでお詫びします)
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シリーズ From 2011
あのとき胸にしまった言葉を いま紡ぐ 10
福島第一原発事故を経験した被害者たちは、いまなお言葉にできない思いを、苦
しみを、抱え続けています。事故当時、まだ幼かった我が子にほんとうのことを話
せなかったおかあさん。幼いながらに親に気を使い、言葉を飲み込んだ子どもたち。
原発事故から14年以上が経って、いまだからこそ言葉にできる「あのとき胸にし
まった言葉」があります。 和田秀子(ままれぼ出版局)
過ちを繰り返さないために
脱原発を訴え続けたい
曽根俊太郎さん(21歳) 福島県(県北)→新潟県
曽根俊太郎さんは、福島第一原発から50~60km離れた地域に住み、発災時は
6歳でした。両親は原発事故から10日後に子どもたちを連れて新潟県に避難。
俊太郎さんはそのまま新潟県内の小学校に進学しました。新潟で暮らし始めてから、
母に連れられ脱原発の集会に参加するように。ここでの出会いが契機となり、高校
2年のとき「高校生平和大使」にエントリーして選出され、核兵器、そして原発のリ
スクを世界に訴えました。今年5月には、台湾で開催された「2025ノーニューク
ス・アジアフォーラム」に参加。現在も、大学で政治学を学びながら、名前と顔を公
表し、被災経験を語りつつ脱原発の必要性を訴えています。
発災当時、僕は6歳で、保育園の年長クラスでした。教室の縁側で避んでいて、年少クラスの子どもたちは昼寝中。突然、地響きのような音とともに力夕力夕と揺れ始めて……。地震を経験したことがなかった僕は、「これは何?白分か揺れているの?」と戸惑っているうちに、大きな揺れがやってきたのです。
先生たちは、急いで昼寝中の子どもたちを起こして、みんなを園庭の真ん中へ避難させました。あの日は3月には珍しく雪が舞い、かなり寒かったのを覚えています。先生が運んでくれた毛布にくるまって、身を寄せ合っていました。
うちは父が早々にクルマで迎えに来てくれたので、帰る途中に町の様子を見て回ると、塀が崩れていたり、塀が全壊していたりして、子どもながらに「大変なことが起こったんだ」と感じました。
間もなく福島第一原発事故が起き、避難までの間、両親俊太郎さんを自宅から
出さなかった。
すぐに避難を決意
僕の両親は、チョルノービリ原発事故が起きた当時、小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)の著書などを読んでリスクをわかっていたので、「この地では子どもを育てられない」と考え、すぐに避難を決めたそうです。
発災から1週間後、ようやく避難するためのガソリンが確保できたので、いち早く避難者受け入れを始めていた新潟県へ向かうことになりました。当初、両親は関東方面へ避難しようと考えていたようですが、海外の気象庁がネットで公表していた風向き予報の拡散地図を見ると、関東にも流れてくることを知り、新潟に変更したそうです。
当時の僕は、行き先もわからないまま、家族で父の車に乗り、新潟県の公民館へ向かいました。到着したのは夜中の2時頃でしたが、職員の方が待っていてくださり、その夜は公民館の大広間で休ませてもらいました。
翌朝には地元の旅館の部屋を用意していただき、4か月ほどそこでお世話になりました。その後、国の補助がある避難者用アパートに移り往み(2017年3月に補助は打ち切り)、新潟での生活が本格的に始まったのです。
土地と人に恵まれた避難生活
その年の4月から、俊太郎さんは新潟県内の小学校に入学。被災地から避難してき
た生徒も当初は大勢いたという。
僕自身は転校生としてではなく、小学1年生から入学できたので、自然と学校になじむことができました。土地柄もよかったのだと思います。観光が主な産業なので、親の仕事の関係で転校してくる子どもも多く、他所から来た人を受け入れる懐の深さがありました。「新潟は人が良い。この土地だから15年も暮らしてこられた」と、両親も感謝しています。避難先でなじめず、辛い思いをした子も多いと聞きますが、僕の場合は本当に恵まれていました。
とはいえ、新潟に避難して最初の2年間は父が不在で、祖父母とも離れ離れになってしまったため、やはり寂しさを感じました。
というのも、両親は発災当時、祖父母とともに、長く続いた商店を営んでいたのです。家族で避難を決めた結果、事業を廃業せざるを得なくなりましたが、すぐに閉めることはできず、区切りがつくまで、父だけが福島に残ることになったのです。両親は本当に大変な思いをしたと思います。生活のため、全く知り合いのいない新潟で新たに仕事を探し、会社勤めを始めなければならなかったわけですから。
原発事故の直後に、政府や福島県が正確な情報を発表していれば、よりスムーズに「避難」という選択を選ぶことができたご家庭も多かったのではないかと思います。
人生を変える出会い
曽根俊太郎さん(21歳)福島県(県北)↓新潟県
現在のような活動を始めるきっかけをくれたのは、母でした。母は脱原発の集会や講演会があると、必ずといっていいほど僕を連れて参加していました。そうした場で、声を上げ続けている大人だちと出会うことができました。たとえば、小出裕皐さんや、おしどりマコ・ケンさん。そして、なかでも俳優の故・木内みどりさんとの出会いは、僕の人生を大きく変える出来事となりました。
みどりさんの存在を知ったのは、当時放送されていたコミュニティラジオ「市民のための自由なラジオLIGHTUP!」を、母が聴いていたことがきっかけてした。みどりさんは日替わりパーソナリティのひとりで、番組の中でよくこう話していました。
「私は、原発のリスクを知っていながら反対してこなかった自分を悔いている。そして原発事故は起きてしまった。だから、今後はちゃんと声を上げていく」
その言葉通り、みどりさんは脱原発集会の司会を務めるなど、積極的に発言を続けておられました。
そんなみどりさんにお会いできるときが巡ってきました。僕が小学5年生のとき、母と一緒に「フジロックフェスティバル」に出かけると、みどりさんが司会をされていたのです。
母が、当事者でもないのに、仕事が減るのも承知のうえで発言してくださっている本気の姿に対して「ひと言、お礼を伝えたい」とたずねると、みどりさんは避難生活の話を丁寧に聞いてくださって。さらに隣にいた僕に向かって、「ねえ、夏休み、長いでしょ?気分転換に、ひとりで泊まりに来ない?」と声をかけてくれたんです。僕は思わず「うん、行きたい!」と即答しました。それがきっかけて2泊3日、11歳にして初めての一人旅を経験することになりました。大都会の東京、しかもみどりさんのお宅に泊まるなんて-今振り返っても本当に貴重な経験でした。
みどりさんとは、特に難しい話をしたわけではありません。森美術館や、浅草の遊園地「花やしき」など、子どもが楽しめる場所に連れて行ってもらったり、経産省前の、あのテント広場にも行きました。その後も数回、泊まりに行き、たわいもない話をしたり映画を観たり。ですから2019年に急なご病気での訃報を耳にしたときは、本当にショックでした。
みどりさんは「自分で考えることの大切さ」や「おかしいと思ったことには声を上げること」の重要性を、自らの生き様を通して教えてくれました。僕は、みどりさんの背中を見て、「自分も何かしたい」と思うようになったのです。そして出会ったのが、「高校生平和大使」という活動でした。
高校生平和大使とは、核兵器廃絶と平和な世界の実現を目指す、全国から選ばれた
高校生たちによる組織のこと。核兵器廃絶を訴える署名活動や、国連欧州本部への
訪問など、国内外での平和活動を行なう。
高校2年生のとき、学校帰りの電車の中でスマホを見ていたら、たまたま「高校生平和大使」のことを知りました。これなら自分の意見を外に伝えられるかもしれない、そう思い応募することにしました。
書類選考後の面接審査では、「核兵器と原発は切り離せない。核兵器廃絶を訴える人は多いけれど、原発にまで触れる人は少ない。だから僕は、脱原発についても訴えていきたい」と伝え、自ら声を上げることの大切さを教えてくれたみどりさんとの思い出や、長く活動されている方々から得た気づきをお話しました。
この結果、見事「高校生平和大使」に選ばれた俊大郎さん。
平和大使の任期は1年。あいにくコロナ禍の影響で、例年続いてきたスイスの国連本部を訪問することはてきませんでしたが、核廃絶を訴える高校生1万人署名を集めたり、各種イベントに参加したりするなかで、自分の被災体験や脱原発への思いを伝えることができたと思っています,
なかでも大きな収穫だったのは、活動を通じて同世代の仲間ができたこと。それまで僕には、政治や原発について語り合える友人がいなかったので、「自分は異端児なのかな」と思っていたのですが、高校生平和大使の活動を通じて、同じ志や考えを持った同世代が全国にこんなにもいることを知りました。「ひとりじゃないんだ」と気づけたことは、大きな励みになりました。彼らとは、今も交流があります。
太学生になってからも、意見を求められれば、集会などに参加して発言をしてきた
俊太郎さん。今年5月には、「2025 ノーニュークス・アジア フォーラム」に参
加した。
このフオーラムは、原発の拡大や核兵器の拡散に反対し、クリーンで持続可能なエネルギーの利用を促進するために、アジア各地の仲開が集まる場です。1993年から毎年開催されていて、今年は5月16日から5日間、台湾で聞かれました。ちょうど台湾の第3原発が5月17日に稼働を停止し、‟原発ゼロ″を達成する節目の年でもあったのです。事務局の方に声をかけていただき、僕も参加することができました。
いよいよ台湾の原発がすべて止まる瞬間、みんなで台湾電力の前に集まり、カウントダウンしました。台湾電力のウェブサイトでは、リアルタイムで発電量を確認できるのですが、夜中の0時に原子力の発電量がゼロになった瞬間、集まった人たちの間で歓声が沸き起こりました。最初は実感が湧かなかったのですが、実際にデータで「ゼロ」が示されたとき、本当にこの国では原発の時代を終わらせることができたのだ、と強く感じることができて,いつか日本でもこんな未来をつくりたいと思いました.
また、フォーラムを通じて、アジアの国々での脱原発運動の取り組みを学ぶこともできました。特に印象に残ったのは、台湾では市民が3世代にわたって粘り強く原発建設に反対してきたことが、原発ゼロにつながったという点です。市民の声によって国の政策が変えられる。その事実を目の当たりにして、大きな勇気をもらいました。また、原発を環境問題のーつとして捉えている目線もあり、これは僕にとって新しい発見でした。
福島第コ原発の事故を教訓にして脱原発に踏み切った台湾。
日本では事故がすでに〝過去″の出来事になっていて、毎年3月11日に思い出す程度になっていますが、台湾では自分たちの〝未来の姿″として捉えています。
「あのような事故は、いつか自国の台湾でも起きるかもしれない」と。それが日本との大きな違いではないでしょうか。
ただ、原発ゼロを実現した台湾でも課題は残っています。「電力の不安定化につながる」として、再び原発再稼働の是非を問う国民投票が8月23日に実施されたのです。結果は賛成が反対を上回りました。しかし、有権者の4分の1という成立要件には届かなかったため、辛うじて不成立となりました。
「日本は原発事故を起こしたけれど、それでも復興に向かっているじやないか」
台湾の原発再稼働賛成派は、このような点を再稼働推進の根拠にしているそうです。
ですが福島は、真の「復興」にはほど遠い。だからこそ今後も、声を大にして伝えていかなければと思っています。せっかく脱原発が実現したのにこんな間違った理由を根拠に再稼働されてしまったら申し訳ないですから。
沈黙という「加担」を拒む
僕は、いつまでも被害者の立場にとどまっていたくありません。黙っていたら、今度は自分が事故に加担する側になってしまうかもしれないからです。それだけは絶対に避けたいと思っています。
広島の「原爆死没者慰霊碑」には〈安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから〉と刻まれていますが、今ではその言葉が自分自身の思いと重なります。原発事故で被災し、避難を余儀なくされ、人生が大きく変わった。僕の場合はまだ恵まれていたほうですが、避難した人もしなかった人も、原発事故によって人生を変えられ、苦しんできた人がたくさんいます。だから、同じような被害者を出したくない。「もう原発はやめましょう」と言い続けなければならない。
当初、母は、僕が名前や顔を出して活動することに反対していました。活動をすることで風当たりが強くなるかもしれない。世間は、そんなに優しく寛容ではないから、と。
母はよく僕に、「子どもに火の粉が降りかかったら、親は払いのけるのが当たり前。子どもの将来にわたる健康と引き換えられるものは何もない」と言ってくれました。
あの時、思い切った決断をしてくれた両親には、感謝の気持ちしかありません。けれど、僕はもう成人しました。これからは自分の責任で生きていこうと思っています。そんな僕を、いま両親はそっと見守ってくれています。