JBpressに「日本の電力供給源を歩く(前編・後編)」が載りました。橋下昇氏の写真と文による「写真ルポ」です。写真は各編とも数枚程度です。写真をご覧になりたい方は「【写真ルポ】日本の電力供給源を歩く〈前編〉(2021年10月15日)」をクリックし原文にアクセスしてください。文中の写真をダブルクリックすると「写真版」のページにジャンプし、順次一覧できます。
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【写真ルポ】日本の電力供給源を歩く〈前編〉
橋本 昇 JBpress 2021年10月15日
フォトグラファー
不夜城のように光輝く都会に暮らし、日夜エアコンに快適さを求めながら、それらを生みだすエネルギーの源について深く考えた事はなかった。原発を目にした事もなかった。福島第一原発の事故が起きるまでは・・・。
事故後、福島で取材を続けたが、それは原発と共に暮らすことの危険を実感する体験だった。放射能に汚染された町から人影は消えていた。目には見えない放射能が不気味で恐ろしかった。
それが原発のある町を訪ねるきっかけだった。2011年6月、原発事故から3カ月後のことだ。
一般の町民までもが「ダメダメ、話す事はなんもねぇー」
青森県大間町は今は高級マグロで全国的に有名だが、以前は「死に来た半島」などと揶揄もされた下北半島の先端の小さな漁村だった。津軽海峡の曲がりくねった海岸線をひたすら走り、幾つもの山間を抜けてようやく辿り着いた大間には春の花タンポポが咲き乱れていた。漁港からすぐの高台に建設中の「大間原発」が見えた。大間原発はMOX燃料を燃やす原発として核燃料サイクル担い手として期待されていた。
しかし、この町では原発の話はタブーのようだ。町民たちは原発の話を切り出すと誰もが途端に顔色を変え「ダメダメ、話す事はなんもねぇー」と逃げるようにその場を去って行く。
「この町に突然、原発誘致の話が持ち上がったのは俺がまだ子供の頃だ。その頃はみんな貧乏だったのが、漁師たちは皆で反対したよ。そりゃー威勢がよかったよ」
港のすぐ近くに住むという男性がやっと重い口を開いてくれた。
「だが電源開発さんはあの手この手を使ったらしい。畑仕事の手伝いまでしてね。飲み代ただの飲み屋を開いたり、豪華温泉旅行なんて接待もあったらしいよ。札束も飛んだろうし、それで反対派を切り崩したんだな。俺は子供だったからおこぼれなんか回ってこなかったけどね」
反対派は少数になり、1984年12月、町は原発誘致を決めた。しかし、それから2008年5月に至るまでの長い間、大間原発は着工すらできなかった。原子炉予定地の地権者・熊谷あさこさんが頑強に原発反対を訴え、土地を手放さなかったからだ。その後あの手この手の挙句に用地買収を断念した電源開発は建設計画を変更してやっと着工にこぎつけた。その3年後の原発事故の事など誰が予測できただろうか。
原発に反対する者は「村八分」
あさ子さんの抵抗の証として建設予定地の真ん中に建てたログハウスに移り住んで反対運動を続ける娘の厚子さんに話を聞いた。
「福島の事故が起きた時、やっぱり恐ろしい事が起こった、取り返しのつかない事が起こった、と思いました。ここの人達も改めて恐さがわかったはずなのに、誰も何も言いません。ここでは原発に反対する人間は政策に異を唱える不届き者なんでしょ。完全に村八分になっていますけど、私はここを絶対離れません」
この「あさこはうす」は全国の反原発運動のシンボルとなっている。しかし厚子さんに気負いはない。
「私が外出すると怪しい人がついて来るのよ。まるでストーカーだわ」
と厚子さんは笑った。
一方の原発容認派の意見も聞いた。皆、「名前も顔も一切出すな」という条件付きだ。
漁港の見える高台の公園のベンチに座っていた男性は、
「今更原発をやめろと言って何になんになる。半島の果ての果ての町じゃ、産業といっても漁があるだけだ。しかもマグロなんて『獲れたらなんぼ』の博打のようなもんだ。みんな貧乏なんだ。原発の協力金で町の予算も潤う。原発関連の仕事もある。店も飲み屋もみんな助かるんだ。何が悪い! 町が潰れてもいいのか!」
と気色ばんだ。
「もう後戻りはできないんだから」
別のマグロ漁師はこう語った。
「初めは原発に反対だったよ。だが、漁業補償で俺たちの生活は確かに良くなった。問題はこれからだ。冷却水を海に流したら潮に敏感なマグロは来なくなるかもしれん。だから補償金は有り難い。人様から文句を言われる筋合いはないよ」
そう話す誰の顔からも複雑な思いが伝わって来た。複雑なだけに語気は強くなる。
「大間の海は豊かだった。昆布だけでも充分生活はできていた」
という人もいた。その豊かな砂浜は原発誘致で消えた。
「もう後戻りは出来ないんだから。仕方ないんだ」
そう話す彼の言葉の奥に、町民の負った小さくはない心の傷を感じた。
豊かになった村、薄らぐ核燃料サイクルへの不安
大間から下北半島の付け根に位置する六ヶ所村に車を走らせた。
冷たい霧に包まれた道路の所々にブリザ—ド避けの遮蔽板、真冬の厳しさが想像される。
六ヶ所村もひと昔前は典型的な寒村だった。多くの村民が冬は出稼ぎに出、若者は仕事を求めて都会へと村を去った。
だが、初めて訪れた六ヶ所村にその頃の面影はなかった。ぐるりと村を取り囲む広い道路、造成中のニュータウン、立派な温泉スパ。村の住宅も殆んどが比較的新しく、余裕ある生活が窺える。
村が寒村からこのハイリッチな村へと変わるきっかけはそもそも、1969年に始まった国の「むつ小川原開発計画」だったが、その石油コンビナート計画は頓挫する。
まさに村を二分して何年にも及んだ論争の末に開発へと舵を切り、農地や漁業権を手放した村民に残された広大な空き地。そこに持ち上がったのが「核燃料サイクル施設」の立地話だった。1984年のことだ。他に選択肢もなく村は受け入れを決めた。怖いという意見は出たが、反対は少数だった。補償金も交付金も入る。地元で働ければ“出稼ぎ”に出なくても暮らしが成り立つ。
そうして90年代に入った村ではウラン濃縮工場、低レベル放射能廃棄物センター、高レベル放射能廃棄物貯蔵管理センターが次々と完成し操業を開始した。鳴り物入りで登場した「プルサーマル計画」の一翼を担う使用済み核燃料再処理工場とMOX燃料工場の建設も進められた。
確かに村は豊かになった。税収は4倍近くまで増え、交付金で道路や村の施設が整備された。農業や漁業、人材育成等への助成金も潤沢に用意されている。原燃や関連企業に働き口も出来た。
バス停で温泉行きのバスを待つ女性グループに話を聞いた。
「毎日温泉へ行ってお喋りして、今は天国のような生活よ」
と笑顔が返ってきた。
実際、原発事故の直後だというのに、拍子抜けする程地元の人の「核燃料サイクル施設」に対する信頼は揺らいでいなかった。
「正直、不安がないかと言えば嘘になるけど反対するつもりはない。核の肥溜め村と言われながら、日本中の原発のゴミを引き受けているんだ。どこかが引き受けなきゃならんだろう」
とFさん(57)は声を強めた。
地元反対運動を続けている女性は核燃料に頼らない村つくりを訴えている。
「再処理工場が稼働するととんでもない量の放射性物質が空気中にも海中にも放出されるんです。これ以上危険な事はやめて欲しい。自然に根ざした産業で村を活性化しなくては若い人の村離れは止められません。現状では村には原子力関連の仕事しかないのだから」
女性の話には説得力があったが、住民の多くはむしろこのまま原子力事業がストップしてしまう事の方に不安を抱いていた。
あれから10年、六ヶ所村は、次世代を見据えたエネルギーシティへと進化を続けている。豊富な財源を使って、村おこし、教育、福祉と次々と政策を打ち出し、成功した村という印象は強い。だが、これから先の村の更なる発展は再処理工場の稼働の如何にかかっている。再処理工場は度重なるトラブルで操業の見込みは立っていない。
「事故は怖いと思うが、明日から路頭に迷うわけにはいかない」
とFさんは言った。
「事故を教訓により安全になるはずだ。再処理工場は必要だ」
原発建設が前提のシナリオ崩壊で疲弊する東通村
一方、六ヶ所村の隣の東通村は少し様子が違う。同じような開発に名乗りを上げ、原発を誘致したが、今、村は財政赤字に苦しんでいるのだ。確かに原発誘致決定後、村は様変わりした。1975年に国道が開通、1988年の村政100周年には地上5階、地下1階という立派な村役場が建設された。その後も建設は続き、考えうる限りの箱物が村に建てられていった。
実際村を歩くと大学かと見まごう中学校、木の香り豊かな老人介護施設、総ミラー張りの火葬場、とまさにゆりかごから墓場までの充実ぶりだ。
中でもひときわ目を引くのは村役場の隣に立つ「村議会議事堂兼交流センター」だ。村の人はこの建物を「鉄人28号」と呼ぶ。これらの施設は電源三法交付金や電力会社の寄贈によって建てられた。村はまずは施設を整備し、そして住民が満足するリッチな村へと変貌を遂げるはずだった。
そこに大震災が起きた。東通村には東北電力と東京電力が全部で4基の原発を建設する予定だったが、唯一稼働していた東北電力1号機は運転停止し、残りの3基の建設は中断した。そして10年、検査は長引き、1号機の再稼働の見通しは何度も延期されている。他の原発の建設も中断したままだ。村は疲弊している。今は電力会社からの寄付が頼りだ。
夕暮れ時、村は静かだった。話を聞こうにも通りには人はいない。やっと遠くの浜で人影を見つけた。
その男性は荒海に腰までつかり昆布を集めていた。
「もう原発も村もどうしようもなんねぇな。村も金のもらい癖がついちまって、一人歩き出来ないんだろうし」
そう言うと男性はまた、黙々と昆布拾いを続けた。
「お金より仕事より命がずっと大事」
と、六ヶ所村で反対運動を続ける女性は言い切った。
しかし、経済という大きな渦に呑み込まれている私達にとって、そう言い切ることはたやすいことではない。
取材を続ける中で「都会という大量消費社会から〈原発への不信〉だけを首からぶら下げて取材に行くことに驕りはなかったか?」という自問が生まれていた。 筆者:橋本 昇