福島県郡山市で福島原発事故に被災し、関西に母子で避難している森松明希子さんが、体験をつづった「災害からの命の守り方-私が避難できたわけ」(文芸社)を出版しました。
森松さんは事故の2カ月後に当時3歳と0歳の子どもと避難することを決めました。ママ友2人と離れ離れになり、「自主避難」というあいまいな線引きに苦しめられました。
そして9年間 内からわき上がる憤りを形にし「当たり前のこと」を求め続けました。いま、東電や国に損害賠償を求める関西訴訟原告団の代表になり発信を続けています。
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原発事故で奪われた日常と生まれた分断 福島離れ10年母子の記録
神戸新聞NEXT 2021/1/19
福島県郡山市で東日本大震災に被災し、福島第1原発事故を受けて関西に母子で避難している森松明希子さん(47)が、体験をつづった「災害からの命の守り方-私が避難できたわけ」(文芸社)を出版した。穏やかに子育てをしていた日常が突然奪われ、福島に残った夫との二重生活は間もなく10年に及ぶ。生活者目線のつぶさな記録は胸を突き、「あなたならどうしますか」と問い掛ける。(鈴木久仁子)
森松さんの著書は2011年3月11日、震災当日に自身の家族に降りかかった出来事から始まる。2カ月後に当時3歳と0歳の子どもと避難することを決めたいきさつ、大阪市内に母子避難をした後の状況を、その時の心境と共に記した。
特に震災後、離れ離れになった福島のママ友2人との境遇の違いは「つらい現実。ぜひ読んでほしい」と話す。森松さんには「頼りにする同志のような間柄」だったが、避難した森松さんに対し、1人は福島に残り、もう1人はいったん県外避難して福島に戻った。
自宅は原発から60キロの「自主避難区域」。それぞれの事情で別々の選択になった。とどまった母親は「私が一番子どもを守っていない。でも逃げる場所もない。放射能のことは考えないようにしないと、生活できない」と吐露。戻った母親からは「母子避難していたことは周囲に隠している」と明かされた。除染の続く町で、母親たちは分断され、物言わず生活することを強いられている。
「自主避難」というあいまいな線引きが引き起こす苦しみ。「放射線被ばくの恐怖から免れ、健康を享受する権利は等しく全ての人に与えられなければならない。それが基本的人権ではないですか」。森松さんは悔しさをにじませる。
内からわき上がる憤りを形にし「当たり前のこと」を求め続けた9年間。東京電力や国に損害賠償を求める関西訴訟原告団の代表になり、発信を続ける。
世界中が新型コロナウイルスという「見えない敵」と闘うさなか、「ある日突然、平和な日常が奪われるのは同じ。こんな時こそ、誰かの指示待ちになり思考停止に陥ってはいけない。『災害からの命の守り方』は一人一人が強い意志と深い思考を重ねることだ」と警鐘を鳴らす。476ページ、1700円(税別)。
【もりまつ・あきこ】1973年、兵庫県伊丹市出身。原発賠償関西訴訟原告団代表。2018年に国連人権理事会でスピーチ、参議院でも被災当事者として陳述した。19年には「黒田裕子賞」を受賞。著書「母子避難、心の軌跡」(かもがわ出版)ほか。