2021年1月2日土曜日

「脱原発依存」で新産業創出を 会田・前柏崎市長

 地元新潟県柏崎市生まれで、2004から2016年まで3期にわたり柏崎市長を務めた会田洋氏に毎日新聞がインタビューしました。
 会田氏は在任中、07年7月の中越沖地震113月の東日本大震災・福島第1原発事故に遭遇しその対応にあたりました。
 福島原発事故までは原発は安全で事故もないとされてきたものの実はそうではなかったことが誰の目にも明らかになり、それからは「安全性を第一にしながら原発を徐々に減らし、将来的には原発に依存しないまちにしなければいけない」と考えるようになったとしています
 柏崎刈羽の再稼働へのスタンスを問われ、「在任中には原子力規制委の審査が終わらず、市長として再稼働について明確に言えるような段階ではなかった。再稼働について容認すると言ったことはない」と語りました
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崩れた安全神話 「脱原発依存」で新産業創出を 会田・前新潟県柏崎市長
                      毎日新聞 2021年12月日1月1日
 中越沖地震と東日本大震災。柏崎刈羽原発の立地市長として二つの災害を経験した前新潟県柏崎市長の会田洋さん(73)に、当時の対応や、原発に対する考えを聞いた。【内藤陽、井口彩】
 −−原発に対する考えに変化は?
 ◆市長に就任した時、1号機の運転開始から19年たっていた。地元には原発を巡る推進と反対の長い抗争の歴史があり、市民が一つにまとまりにくい状況が今も続いている。就任までは大きな事故もなく、市長としては「あくまでもまちの安全性を確保しながら、原発と共存する」というスタンスだった。
 しかし

 −−柏崎刈羽の再稼働へのスタンスは
 ◆市が行ったアンケート(「エネルギー政策に関する市民意識調査」2020年2月)では、再稼働についての問いはないが、直ちに ▽徐々に ▽できる限り——を合わせた9割近い市民が原発を減らしていってほしいと答えており、市民の大多数と私は同じ考えだと思う。
 だが私の在任中には原子力規制委員会の審査が終わらず、市長として再稼働について明確に言えるような段階ではなかった。再稼働について「容認する」と言ったことはない。「当面する再稼働はともかく、将来に向けて原発を減らしていかなければならない」というのが当時の言い方だった。

 −−中越沖地震で、発生2日後に消防法に基づく「緊急使用停止命令」を出した経緯は
 ◆発生当日、安倍晋三首相(当時)に同行する形で私も原発に行った。3号機変圧器の火災は鎮火していたが、道路も配管も波打ってズタズタだった。
 翌日に立ち入り調査した市消防本部から報告を受けた時に、同行した総務省消防庁の担当者が「消防法の使用停止命令をかけるべきだ」と言って帰った、ということを聞いた。それで初めて「そんな規定があるのか。どうする?」となった。「状況から見て使用停止命令をかけるべきだ」という方針は決まったが、「どういう状態になったら解除するのか」ということが特に議論になった。

 −−その後はどのように運転再開したのか
 ◆東電がさまざまな安全対策を講じ、原子力安全・保安院や原子力安全委員会が安全確認をした。県技術委員会も「国の評価は妥当」という結論を出した。その段階で地元の市長としての判断を迫られた。「安全に対する技術的な問題がクリアされたのなら、運転再開を認めざるを得ない」。そう考えた。
 しかし、原発の運転再開に不安を持っている市民がいる。できるだけ丁寧に説明して理解を得る努力をした。東電や保安院もそれぞれ説明会を開いたが、相当荒れたと聞いた。私は市長としての考えをまとめた文書を全戸配布し、市民からの意見を募った。市内6カ所で市民説明会を開き、私自身が出席して直接市民の声を聞き、ほとんどもめなかった。

 −−東日本大震災での対応は
 ◆事故からまもなく福島県双葉町の井戸川克隆町長(当時)から夜遅くに「柏崎に町民3000人を受け入れてほしい」と電話があった。「これは大変だ。3000人はちょっと無理だ」と。翌朝、森民夫・長岡市長(当時)に電話をかけて「柏崎で2000人受け入れるから、残り1000人を受け入れてもらえないか」と依頼し了解を得た。結果として双葉町民は埼玉県加須市に行くことになったが、実際に受け入れていたら大変だったろう。
 事故が進むにつれて柏崎市に続々と避難者が集まった。一時は2000人超と県内で最も多くなった。原発から逃げるのに、なぜ避難先が原発のある柏崎なのか。当初は分からなかったが、避難者には原発関係者が多いことが次第に分かってきた。以前に柏崎で原発関連の仕事をしていた ▽夫は福島だが家族は柏崎にいる ▽仕事上の知り合いがいる——などの人々だ。福島と柏崎の両方を行き来して、柏崎に土地勘があったのだろう
 市では被災者サポートセンター「あまやどり」を設置。見守り訪問や交流の場の提供などの避難者支援にあたったり、福島原発の立地4町に支援のため職員を派遣したりした。

 −−なぜそこまで避難者の受け入れに尽くしたのか
 ◆柏崎市、刈羽村と4町とは同じ東電の原発がある縁で、以前から年1、2回持ち回りで交流を続けてきたので、ひとごとではなかった。4町は全く推進一色で、「柏崎には原発反対の人がいて大変だね」と冷やかす町議もいた。その人たちが被害を受け、心中いかばかりだったか。避難先に町長を訪ね、避難者の惨状を目の当たりにして、避難者が何人来ようと、なんとかしなければいけないという思いだった。

 −−新エネルギー産業創出への取り組みは
 ◆原発に依存しないまちづくりには、原発に代わる新たな産業が必要だ。将来に向けて原発に依存しないという方向性を市民が共有し、併せて地域のさまざまなポテンシャルを結集して新たな産業構造構築の可能性を探ることだ。福島事故後「明日の柏崎づくり事業」として勉強会、講演会、シンポジウムなどに取り組んだが、そう簡単にできるものではなかった。

 −−昨年の市長選で現職の桜井雅浩氏が再選を果たした
 ◆6、7号機の再稼働問題が主要な争点の一つになったのは間違いない。だが市長選はあくまで次の4年間のまちづくりのリーダーを選ぶもの。原発を含めたさまざまな課題に対し民意が示されたということで、再稼働の是非を問う住民投票ではない。4年間の桜井市政に対する市民の評価や今後への期待が高かったということだ。
 廃炉産業や地域エネルギー会社設立など、原発に代わる産業が必要だという問題意識は似ているが、桜井氏はもともと原発推進派で私は慎重派。立ち位置はそれほど遠くはないが、向いている方向は違うのかもしれない。再稼働については、市民の中にさまざまな意見があるので、それを改めて丁寧にくみ取る努力をしたうえで、判断することが非常に大切だと思う。

新潟県と原発のおもな出来事
1975年 3月 東京電力が柏崎刈羽原発1号機の原子炉設置許可を申請
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  85年 9月 柏崎刈羽1号機が営業運転開始
  96年 8月 巻町の住民投票で東北電力巻原発の建設に反対多数
  97年 7月 柏崎刈羽7号機が営業運転開始、全号機が完成
2001年 5月 刈羽村の住民投票で柏崎刈羽プルサーマルに反対多数
  02年 8月 東電の原発トラブル隠しが発覚
      9月 県などが柏崎刈羽プルサーマルの事前了解を取り消し
  04年10月 自民、公明が推薦する泉田裕彦知事が初当選
  07年 7月 中越沖地震、柏崎刈羽が被災し全号機が停止
  09年 5月 中越沖地震後初めて柏崎刈羽7号機が起動
2011年 3月 東日本大震災 東電福島第1原発事故
  12年 3月 柏崎刈羽6号機が定期検査、東電の全原発が停止
      4月 柏崎刈羽の運転差し止めを求め住民らが東電を新潟地裁に提訴
      7月 泉田知事の要請で、県技術委が福島事故の検証を開始
      9月 原子力規制委員会が発足
  13年 3月 県が福島事故を受けた初の大規模な原子力防災訓練
      6月 規制委が原発の新規制基準を決定
      9月 東電が新規制基準に基づく柏崎刈羽6、7号機の審査を申請
  16年 2月 東電が福島事故の炉心溶融を隠す、県技術委の議論で発覚
     10月 柏崎刈羽の敷地が津波で浸水恐れ、規制委の審査で発覚
     10月 野党3党が推薦し再稼働に慎重な米山隆一知事が初当選
  17年 1月 米山知事が「三つの検証」の検証委設置を表明
      2月 柏崎刈羽の免震重要棟が耐震不足、規制委の審査で発覚
     12月 柏崎刈羽6、7号機が新規制基準に基づく規制委の審査に合格
  18年 6月 自民、公明が支持する花角英世知事が初当選
  19年 1月 県が原子力災害広域避難計画の原案を公表
      8月 東電が柏崎刈羽の1基以上の廃炉を桜井雅浩柏崎市長に表明
  20年 4月 柏崎刈羽の使用済み核燃料税を経年累進化する柏崎市条例が成立
      9月 県技術委が福島事故検証の報告書を大筋でまとめる
     10月 規制委が柏崎刈羽6、7号機の保安規定を認可、全審査が終了

会田洋(あいだ・ひろし)氏
 1947年3月、柏崎市生まれ。東大工学部卒。大阪市、長岡市の職員を経て2004年に柏崎市長に就任。市長を3期12年務め、07年7月の中越沖地震、11年3月の東日本大震災・福島第1原発事故の対応にあたった。