2024年7月20日土曜日

能登半島の珠洲原発「作らなくて本当に良かった」

 1975年に能登半島の珠洲市に原発が作られる計画が明らかになると、住民の間に反対運動がおき、それを切り崩そうとした国と電力会社との間で28年に及ぶ「闘争」が行われた末に計画は凍結され、代わりに志賀町に現在の志賀原発が作られました。

 6月29日、藤野やすふみ能登半島地震被災者共同支援センター所長(前衆議院議員・北信越北陸ブロック比例予定候補)は、能登半島地震の震源地にもっとも近く「珠洲原発」予定地った珠洲市高屋町を視察し「もし原発ができていたら、海面隆起で海からの取水機能失なわれたと考えると、恐ろしいことになっていたと思う」と語りました。それは住民誰しも感じているところです。

「能登地震共同支援センター通信 No39(7月8日)」に「珠洲原発『作らなくて本当に良かった』」という記事が載りました。同記事のDDF版を掲示します。
 (ご覧になるには下記のURLをクリックしてください)
https://drive.google.com/file/d/1Vx7OQR9E9tA2qcEqsFRPqAORydIkVGCd/view?usp=sharing 

 追記
 新潟県にも同様の原発誘致反対運動がありました。
 かつて新潟県巻町に東北電力が原発を作る構想があり、1971年5月に正式に発表されました。
 原発の誘致には、1977年12月に巻町議会が賛成し、巻町長が1980年12月に、新潟県知事が1981年11月に、それぞれ同意を表明しました。これを受けて1982年に東北電力が巻原発の設置許可を通産省に申請しました。
 その一方で、米スリーマイル島原発事故(1979年)、ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)によって、町民に原発への不安が高まり、原発所計画の是非を問う、条例に基づく日本で最初の住民投票が1996年8月4日に行われ、反対派が勝利しました。

 その後様々な経緯を経て、東北電力は2003年12月に巻原子力発電所計画を撤回しました。(因みに巻町で1995年2月に行われた、計画の是非を問う自主管理住民投票では、原発賛成474票に対して反対9854票でした)

 PDF版のうち関連部分のテキスト版を以下に紹介します。
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珠洲原発「作らなくて本当に良かった」
               能登地震共同支援センター通信 No39(7月8日)
 6月29日、藤野やすふみ能登半島地震被災者共同支援センター所長(前衆議院議員・北信越北陸ブロック比例予定候補)は、能登半島地震の震源地近く建設計画されていた「珠洲原発」予定地った珠洲市高屋町を視察しました。
 今回の地震で住宅の大半壊れ、陸路も海路も閉さされて孤立状態となった高屋地区。能登半島地震の震源地にもっとも近く、「もし原発ができていたら、海面隆起で海からの取水機能失なわれたと考えると、恐ろしいことになっていたと思う」と藤野氏。住民誰しもそう感じています。
 建設を阻止したのは、住民らの長年にわたる根強い反対運動した。1975年に持ち上った原発建設の計画は、住民の反対運動と、それを切り崩そうとする国と電力会社側との28年にも及ぶ「闘争」の末、2003年12月に計画は凍結となりました。
 当時、原発に賛成した住民たちも「原発つくらなくて本当に良かった」と話します。

被災地の仮設を訪問し支援物資お届けと、要望の聞き取り
 能登半島地震から半年、いまに復興の見通しか明らかにならない中、「被災者共同支援センターは、被災者に寄り添う」を合言葉に、被災地こ奥能登の仮設住宅を訪問して、全国からの支援物資をお届けし、仮設入居の被災者から、いろいろな要求をお聞きする活動を中心に行っています。
             (後 略)