2023年10月16日月曜日

“世界最大の原発基地”に『原子の火』がともった日 柏崎刈羽原発

 BSN新潟放送が掲題の記事で、柏崎刈羽原発の立地前夜から現在に至るまでの経緯を取り上げました。
 柏崎市荒浜地区(柏崎刈羽原発の立地地域)で日本石油の撤退や1963年(昭和38年)の「三八豪雪」を経て、地元政財界や住民から地域開発を求める声が上がりました。
 そうした関係で柏崎市への原発誘致の流れが一気に進み1969年3月柏崎市議会は原発誘致決議を採択、同年9月東京電力が進出を決定しました。
 その一方で住民の反対運動が起こり、荒浜地区では1972年に住民投票が行われ、8割近くの住民が反対の意思表示をしました。
 この反対の声を切り崩す動きとして政府電力事業者いわゆる『電源三法』創設し、立地自治体に対して巨額の資金が振る舞われるようになりました。
 しかしその使途は法律で指定されていたため、自治体は「箱モノ」の建設に向かったのですが、結果的に現在多くの原発立地地域で「箱モノ」の補修・維持のために巨額の費用を要するようになりました。
 箱モノが真にその地域に必要であったのであれば納得できる筈ですが・・・
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【あの日あの時】
“世界最大の原発基地”に『原子の火』がともった日 柏崎刈羽原発
                        BSN新潟放送 2023/10/15
 BSN新潟放送が伝えてきた映像・音声のアーカイブの中から、新潟に大きな影響を与えた事象を厳選しそれが現在にどのように関わっているかを検証します。
2回目は1985年(昭和60年)の『柏崎刈羽原発 営業運転開始』です。
 1997年7月に7号機が営業運転を開始し、カナダのブルース原子力発電所の出力を抜いて“世界最大の原発基地”となった東京電力・柏崎刈羽原子力発電所。
 2011年3月に発生した東日本大震災による福島第一原発の事故を受け全号機が運転を停止しました。その後、津波対策をはじめとする防災体制の強化を図り、原子力規制委員会より6、7号機が安全審査に合格しました。
 しかし、2021年4月に原子力規制委員会が、テロ対策の不備を理由に、核燃料の移動や装填を禁じる是正措置命令を決定。原発を運転する東京電力の事業者としての「適格性」が厳しく問われ、再び再稼働が見込めなくなりました。新潟県も再稼働議論の前提となる「独自の検証」をとりまとめましたが、地元自治体の“同意”がいつ、いかなる形で決着するのか先が読めない状況が続いています。

■原発立地前夜 ~原発誘致と反対運動~
 原発のある柏崎市荒浜地区はかつて「陸の孤島」といわれるなど、地元政財界や住民から地域開発を求める声が強く上がっていました。特に日本石油の柏崎からの撤退や1963年(昭和38年)の「三八豪雪」と言われる豪雪により、孤立した地域の開発を求める地元住民の声は更に大きくなりました
 この頃、当時の小林治助市長に政府や東電関係者から原発誘致の働きかけがあり、柏崎市への原発誘致の流れが一気に進みます。1969年3月、柏崎市議会は原発誘致決議を採択、同年9月、東京電力が進出を決定します。
 一方で住民の反対運動が起こり、荒浜地区では1972年に住民投票が行われ、8割近くの住民が反対の意思表示をしました。しかし、この反対の声を切り崩す動きが 国会、政府、電力事業者の間で始まりました。
いわゆる『電源三法』の創設です

■「電源三法交付金」と田中角栄総理
 「電源三法」とは発電用施設の設置及び運転の円滑化を図るため、「電源開発促進税法」、「特別会計に関する法律」及び「発電用施設周辺地域整備法」の3つの法律に基づく交付金制度です。この交付金により発電所を受け入れる電源立地地域の社会基盤整備や産業を支援しようというものです。
「電源三法」は1974年6月に成立。
 時の首相は、柏崎刈羽原発に隣接する西山町(当時)出身の、田中角栄氏でした。
「東京に造れないものを造る。造ってどんどん電気を送る。そして、どんどん東京から金を送らせる」
 電源三法の立役者と言われる田中角栄氏は当時、こう語ったといいます。
 電源三法公布からわずか1か月後の1974年7月、電源開発調整審議会で柏崎刈羽原発1号機の設置が認可されました。   
 地元・柏崎市では、巨大な建設投資に伴う地域経済への波及効果、雇用の増大、電源三法交付金による地域開発、運転開始後の固定資産税の大幅な増収による自治体財政への寄与などが期待されました。

■“世界最大の原発基地”へ
 柏崎刈羽原発1号機は1978年(昭和53年)12月に着工。
 7年後の1985年9月には、計画公表以来16年目にして、日本で31番目の商業用原発として営業運転をスタートさせます。
 その後、1990年4月に5号機、1990年9月に2号機、1993年8月に3号機、1994年8月に4号機、1996年11月に6号機、そして1997年7月に7号機が営業運転に入りました。7基の合計出力は世界最大の821.2万kWとなりました

■原発は地域経済の活性化に寄与したのか
 原発が立地した自治体には一般財源、特定財源ともに巨額の収入がもたらされます。財政基盤がぜい弱な自治体にとっては大きな財政収入が得られることは大変な魅力です。一般財源としては、固定資産税、住民税のほか、県の法定外普通税として核燃料税もあります。また、柏崎市は「使用済燃料税」を課しています。
「原発を建設すれば地域経済が活性化して人口も増える」というのは、本当だったのでしょうか。
 柏崎刈羽原発1号機の運転開始以来、柏崎市・刈羽村には莫大な交付金収入がもたらされ、歳入の大きなウエイトを占めてきました。これにより、道路などのインフラ整備や地域の福祉・教育施設の建設が進みました。
 また、原発は建設が終わっても、それぞれのプラントには法律で13か月に1度の定期点検が定められていて、関連企業を含めた多くの労働者が地元にお金を落とし、地元経済を潤すというビジネスモデルが期待されました。
 しかし、柏崎市の人口は1960年が約7万4000人、全号機が稼働していたころは約8万7000人とピークを迎えますが、2023年9月時点では7万7753人と「陸の孤島」時代に戻っています。
 福島第一原発の事故で崩れた「安全神話」のように、原発誘致が街を発展させるという“期待”も、もうひとつの 「原発神話」だったのではないでしょうか。

■柏崎刈羽原発のこれから
 エネルギー資源に乏しい日本では、化石燃料に頼らない「原子力発電」を基幹エネルギーにしようという流れが長年続いてきました。しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災による福島第一原発の事故で分かった安全神話の崩壊、世界的な脱原発への流れ、再生可能エネルギーへの転換という潮流など、世界では原子力発電所に対する考え方が大きく転換する時代を迎えています。
 しかし、政府はエネルギーのベストミックスとして、本来なら廃炉とすべきだった原発の運転期間の延長を決定しました。
 1985年に最初の営業運転をスタートさせた「柏崎刈羽原発」も存続し続けます。
 再稼働の先にある、核廃棄物の最終処分の問題など、さまざまな課題を先送りしながら…。
 
 あれから38年。
 原発立地県で暮らす私たちは今後どう向き合っていくべきなのか?
 目の前の巨大な“装置”を次の世代に託す前に考えなければならない大きな課題ではないでしょうか。