2013年9月17日火曜日

読売の「1ミリ・シーベルトへの拘りを捨てたい」とは?

 読売新聞が9月12日に「福島の除染計画 『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい」と題する社説を掲げました。
 それに対して武田邦彦教授が13日、ご自身のブログに「『1ミリ・シーベルト』への拘りを捨てたい とはなにか?」と題する論評を載せました。

 武田教授は原発事故が起きた直後から、一貫して年間の被曝限度は1ミリ・シーベルトであると主張して、年間の許容限度を100ミリ・シーベルトや20ミリ・シーベルトとする考え方を批判して来ました。
 その結果、事故後2年半を経て、一般の人の被曝限度が1年1ミリ・シーベルトであることを否定する人はいなくなったということですが、その許容値をもっと上げようという声が跡を絶たないということです。
 現に、政府の原子力災害対策本部が2011年6月に指定した「特定避難勧奨地点」の基準レベルは、年間20ミリ・シーベルト(実質的にはもっと高い)になっています。
 武田教授の13日付のブログを読むと、1ミリ・シーベルトを年間の許容値としている根拠・考え方がよく分かります。
 
 また15日にも武田教授は同じ社説についての記事を書いて、今度は基準値を上げようとする理由について、教授らしい独特の考察をしています。

 以下に13日のブログの全文と、15日のブログの抜粋を紹介します。
            (太字のアドレスをクリックすると音声解説にジャンプします)
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【読売新聞社説の論評】 「「1ミリ・シーベルト」への拘りを捨てたい」
                 とはなにか?
武田邦彦 平成25年9月13日
読売新聞が2013年9月12日つけで、「「1ミリ・シーベルト」への拘(こだわ)りを捨てたい」という社説を出した。

その論旨は、「政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を20ミリ・シーベルト以下としている。国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ。 その上で、長期的には年間1ミリ・シーベルト以下に下げる方針だ。
 しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう拘る声が依然、少なくない。
 人間は宇宙や大地から放射線を浴びて生活している。病院のCT検査では、1回の被曝線量が約8ミリ・シーベルトになることがある。
 専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていないと指摘する。
 政府は、放射能の正しい情報を周知していくことが大切だ。」としている。

社説だから見解は見解として尊重しなければならないが、取材を基本とする新聞社としては「事実誤認」が多すぎて、「自分の意見を通すためには事実を曲げてもよい」としているので、一般人の意見としてはありうるが、大新聞の社説としては頂けない
このぐらい事実を無視するなら、社説の最初に「読売新聞は原発の再開を支持しているので、事実は無視します」と断った方がよい

一つ一つ検証しよう。
まず「政府は、住民帰還の目安となる年間被曝ひばく線量を「20ミリ・シーベルト以下」としている。国際放射線防護委員会の提言に沿った数値だ。」とあるが、ここは正しくは、次のように書かなければならない。
日本では事故時における最大の被曝量を1年5ミリ(原子力安全委員会)としており、また事故時の発がん予想数についても規定している。政府の決定は日本国内の正式機関(安全委員会)の決定をないがしろにして海外のNPO(任意団体で国際放射線防護委員会という名前を使っている)に従うのは国民を無視したものだ。」

第二に、「しかし、住民の中には、直ちに1ミリ・シーベルト以下にするよう拘る声が依然、少なくない。」とある。問題は「拘る」という用語だが、1年1ミリは日本の基準で、また日本の一般人の被曝限度として長く使われてきたものだから、それを「尊重する」という用語を使うのが適当だろう
「法令や基準を遵守する」というのは日本社会の不文律であり、安全な日本を作っている基幹的な道徳それを「拘る」という用語を使うのは不見識である法令や基準を守りたくない人が法令を守ろうとしている人を非難してはいけないまして新聞の社説だから見識が無い

第三点は、「人間は宇宙や大地から放射線を浴びて生活している。病院のCT検査では、1回の被曝線量が約8ミリ・シーベルトになることがある。」としていることだ。
被曝量は「足し算」なので、1)自然からの放射線、2)医療用放射線、3)大気中核実験の放射線、4)原発などの放射線、からの被曝を合計して平均的に1年5ミリになるようにしており、その中で4)が1年1ミリであり、「並列で比較できる」というものではない。
医療用被曝が多いと言うことを強調しているが、CTなどで被曝する場合、「自分の健康を守るという利益」と「CTで被曝する損害」を比較して利益が上回れば実施するという関所がある。これは「正当化の原理」といって専門家ならすべての人が知っているので、読売の論説委員はよほどたちの悪い専門家に聞いたに違いない
命を守るために患者の足の切断手術が許されるから、他人の足を切断してよいという論理だ。比較してはいけないことを比較して素人を騙す手法だから、これは新聞社としては謝罪するべきだろう
次に、「専門家は、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果、積算線量が100ミリ・シーベルト以下の被曝では、がんとの因果関係は認められていないと指摘する。 政府は、放射能の正しい情報を周知していくことが大切だ。」
というくだりだが、一生の積算線量は100ミリが限度で、人間はおよそ100才ぐらい生きるので、1年1ミリという限度が決まっている意味もあるこれは毒物などの摂取の基準の常識で、「将来は被曝しないだろう」という推定はしてはいけない。もしするなら一人一人の被曝管理をしなければならない。
最後の文章「政府は・・・」は、もしこの通りにしたら「政府は自ら決めていた1年1ミリという被曝限度は正しくなかった」としなければならない。
これまでの基準は人間の叡智を結集して1年1ミリと決めていたのだから、それを超える知識を持っているとすると、読売新聞の論説委員は神になったようだ。おそらく論説委員は「健康よりお金」、「他人が病気になっても俺は大丈夫東京にすんでいるから」ということだろう。

【読売社説の“東京的”意味】 健康とお金、東京の人の健康
武田邦彦 平成25年9月15
2013年9月12日の読売新聞が社説で「1年1ミリに拘る人がいる」とした。事故後、2年半を経て、一般人の被曝限度が1年1ミリであることを否定する人はいなくなったが、相変わらず、被曝限度をあげろとの声が絶えない。
 (中 略)でも、読売新聞が「被曝限度をあげろ」としているのには理由がある。それを考えて見たい。
1) 被曝限度をあげても東京に住んでいる自分や家族は大丈夫だ、
2) 除染したりするとお金がかかり税金があがるのはイヤだ、
3) 世界の基準が1年1ミリだけれど、日本の中だけだからごまかせる。
ということだ。つまり、原理原則はハッキリしていて、「自分、お金」(己金思想)である。これは現代日本の病気といってもよいだろう.自分だけ良ければ良い、お金がもらえればよい、損したくない、他人の健康より自分のお金という思想が「己金思想」である。昔から中国にはあった思想だが、今は東京の人がその病気に感染し、特に知識人に多い。

このことを「冷静版」と「感情版」の二つで整理しておきたい。

まず「冷静版」(中 略)
「福島を除染して1年1ミリにするには金がかかる。東京に住んでいて被曝する事は無いのだから、金は出したくない」 ということだ。この考え方と論理矛盾は原発政策の根源をなしている。
「原発は安全ですか?」という問いには「安全」と答え、「なぜ、東京の電気を新潟で作るのですか? アメリカも東海岸に、フランスも消費地の近くに原発があるのに」と聞くと「危険だから」と答える。
この論理矛盾が平然と通るところに、現在の日本の病根(誠実な社会ではなくなった)の一つでもある。読売新聞の社説はこの「冷静版」にあたる。日本の経済のために被曝で病気になる数人は切り捨てる、東京には影響はないというものだ。

次に「感情版」である。
(中 略) 突如として記者は電話口で怒鳴りだした。
「俺の彼女が福島にいるんだ!そして被曝で苦しんでるっ!それはお前が1年1ミリなどと言うからだっ! 彼女の苦しみが判らないのかっ!」

私は可哀想に思った。彼女の苦しみを除くのは、まず退避、そして除染、福島がまたあの美しい郷土に戻るように必死で頑張ってもらいたいのに、「お前が被曝は安全」とさえ言えば彼女は楽になる・・・と一途に思っている。 (中 略)
自分の処理能力を超える事態を迎えたとき、人はリスキーシフトを起こし、自暴自棄の行動にでる。原子力予算が1年5000億円もあり、電力の工作経費は1000億とも言われる。その少しでも福島に投入すれば、奇妙な論理を展開しなくてもよかったのに。