退職後の生活設計の全てを奪われた村田さんは、2012年6月に東電幹部や政府関係者らを業務上過失致死傷容疑などで告訴・告発した「福島原発告訴団」に名を連ねました。
しかし捜査を尽くしたとも思えないなかで全員不起訴が決まりました。メディアは東京オリンピック決定で紙面や番組を埋め尽くして、そのことをろくに報じませんでした。それどころか事前に何度も「不起訴か」と、いわゆる検察のリーク記事を流して、不起訴になっても仕方がないという雰囲気を醸成していました。
オリンピック招致のプレゼンテーションでは、首相は福島の実情を無視した驚くべき発言をしました。「フクシマ」を遺棄した発言といわれました。
そして11日には、今度は田中規制委員長が首相と瓜二つの驚くべき発言をしました。
神奈川県などで暮らす原発被災者たち44人が11日、東電と国に総額約11億円の損害賠償を求める訴訟を横浜地裁に起こしました。
村田さんは記者会見で、「国に見捨てられるという危機意識がある。避難者の実情を訴えたい。追い詰められた気持ちです」と話し、ハンカチで何度も目元をぬぐいました。
「頼れるのは司法しかない」。再度そう思って立ち上がった村田さんたちに、司法は今度こそキチンと対応してくれるのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「被害者放置の国に異議」 原発事故 南相馬から避難の村田さん
東京新聞 2013年9月12日
「一言で言うと悔しい。このままだと、国に見捨てられるという危機意識がある。避難者の実情を訴えたい。頼れるのは司法しかない。追い詰められた気持ちです」
東京電力福島第一原発事故で福島県からの避難を強いられ、神奈川県などで暮らす人たち四十四人が十一日、東電と国に総額約十一億円の損害賠償を求める訴訟を横浜地裁に起こした。
福島県南相馬市から横浜市旭区に避難した村田弘(ひろむ)さん(70)は、原告の一人として出席した記者会見で、国の姿勢を批判し、ハンカチで何度も目元をぬぐった。
元全国紙記者の村田さんは二〇〇二年末に定年退職した後、故郷の南相馬市に戻り、空き家になっていた妻の実家を退職金でリフォーム。畑を開墾し、桃やリンゴの無農薬栽培に挑戦していた。
しかし、家と畑が福島第一原発から二十キロ圏内だったため、原発事故で避難を余儀なくされた。現在は一時帰宅できるようになったが、退職金をつぎ込んだ「ついのすみか」には住めないままだ。事故前から横浜に住む娘夫婦とともに一戸建て住宅を借り、二世帯同居を続ける。
村田さんは、原発事故当時の東電幹部や政府関係者らを、業務上過失致死傷容疑などで告訴・告発した「福島原発告訴団」にも名を連ねる。東京地検は九日、告訴・告発された東電幹部ら四十二人を「刑事責任を問うのは困難」などとして全員不起訴にした。
しかし、翌日の朝刊各紙は、八日早朝に決定した二〇二〇年夏季五輪の東京開催を報じるニュースで紙面が埋まり、全員不起訴のニュースは、相対的に扱いが小さくなった。九日は新聞休刊日明けで朝刊が発行されなかったこともあった。
「休刊日明けの五輪ニュースで紙面が一杯の日を狙って、検察が意図的に発表したとしか思えない。被災者を愚弄(ぐろう)する邪悪な試みだ」と、元新聞記者の視点から分析した村田さんは、怒りを隠さない。
しかも、東京開催を決めた国際オリンピック委員会の総会では、安倍晋三首相が福島第一原発の汚染水漏れ事故について「状況はコントロールされている」と断言した。
「安倍さんはまず私たちに向かって『安全だ』と言ってほしい。外国に言ってもしょうがない。一体どこの国の首相なのか」と、村田さんは嘆く。
一方、自身が被災者になったことで、記者としての歩みを反省した面もある。
「記者は事件や事故を客観的に取材して伝える立場。でも、自分が被害者になると痛みが全然違う。私の書いてきた記事は、どれだけ被害者の実態を分かっていたのか」
当事者意識の不足に対する反省と怒りは、十一日の提訴に込めた思いとも共通する。
「これだけ原発事故の被害者がいるのに、国は率先して対応せず、ほったらかしにしている。賠償金を求めるだけではなく、被害者を放置する国への異議を、きちんと申し立てたい」(新開浩)
南相馬市の自宅の写真を前に、震災前の生活を振り返る
村田さん(左)と妻の公美子さん=横浜市旭区で