10日夕、TBS-TVで東海村 村上達也村長の特集が報じられました。
村上村長は1999年に東海村JCOで起きた臨界事故が起きた際、国に対応を求めても連絡さえも取れないなかで、独自の判断で、原子力災害としては日本で初めて避難指示を出し、住民を被曝から救いました。
また、2011年3月の東日本大震災のときには、津波の高さがあと70センチ高ければ東海第二原発も機械室が水没するという「フクシマ寸前」の危機を体験し、引き続き3月15日には、まだ放射能レベルについては何も公表されないなかで、東海村の線量が通常の100倍に当たる5マイクロシーベルトであったことを確認していました。
そうした経験のなかで、12年前にJOCの臨界事故を経験していながら国は原発事故時の対策については何も講じてこなかったことを、あらためて知りました。
事故から僅か2ヵ月後、国が原発再稼働の「安全宣言」を行ったときに、村上村長は「脱原発」に舵を切る決意を固めました。そして全国の市区町村長や元職の有志でつくる「脱原発をめざす首長会議」を設立(2012年。会員数は現在約86人ほど)し、その世話人になりました。
今年の4月にも東海村で「第3回脱原発サミット」を開くなど、今では「脱原発」の象徴的な存在となっています。
以下にTBSニュースを紹介します。
(村上村長 関連記事)
2013年4月8日「東海村で 第3回脱原発サミット」
2013年4月29日「脱原発をめざす首長会議 が開かれました」
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原子力発祥の地・東海村、村上村長はなぜ脱原発に?
TBSニュース 2013年9月10日
福島第一原発の事故から9月11日で2年半です。事故後、「脱原発」を訴える声も多くあがりましたが、その中で象徴的な存在として注目されたのが、原子力施設が集まる茨城県東海村の村上達也村長です。原子力の村の村長は、なぜ脱原発に舵を切ったのでしょうか。
「原子の火に生きる」。石碑に刻まれたこの文は、茨城県東海村の村民憲章の一節。日本の原子力発祥の地として知られる東海村。2基の原発だけでなく、様々な原子力関連の研究施設が集まっています。
村上達也村長(70)。村長を務めた4期16年。まさに原子力とともに歩んできました。しかし、今では「脱原発」の象徴的な存在でもあるのです。
「がっちり再稼働反対だな。揺るぎないね、それは」(村上達也村長)
国に東海第二原発の廃炉を求める旗振り役を務めています。
「原子力発電を保有することは 危険が大きすぎる」(村上達也村長)
原子力の村の村長から脱原発のリーダーへ。いったい、何があったのでしょうか?
1999年、核燃料の加工会社JCOで起きた臨界事故。放出された強い放射線で、作業員2人が死亡し、650人以上が被ばくしました。当時、国内最大の原子力事故でした。
「東海村の評価・名前が地に落ちた」(村上達也村長)
そして、「原子力事故は起きない」という安全神話の中で、住民を避難させる十分な防災計画がなかったことが村長を追い詰めたのです。国に対応を求めても連絡すら取れず、十分な情報もない中、自分の判断で原子力災害としては、日本で初めて住民に避難指示を出しました。
「ここで人生をおしまいにしてもいい覚悟は決めました。住民を避難させる、守る」(村上達也村長)
JCOの事故は、原子力事故の恐ろしさと防災体制の不備をあらわにしました。
「社会的な体制は 組むことができない国だとJCOのときに思った。安全神話という非科学的なもので科学技術をコントロールするなんて非科学的な精神ですよ。こんな国は原発を持つ力はない」(村上達也村長)
そして、その12年後・・・。村長が見せてくれたのは、2011年3月、あの震災発生直後の日記です。
「3月15日はね、北からの強い風。東海村の放射線量が通常の100倍以上の5マイクロシーベルトに上昇」(村上達也村長)
福島第一原発の事故でも、国の対応は後手に回り、住民避難は混乱を極めました。
「福島原発事故を見たときに、きちんとした対応ができていないと。JCO臨界事故から福島原発事故までは一直線である」(村上達也村長)
そして、東海村も「フクシマ」寸前の危機だったのです。津波は、あとわずか70センチ高ければ東海第二原発の防潮堤を乗り越えていました。この防潮堤は、半年前にかさ上げしたばかりだったといいます。地震が防潮堤をかさ上げする前に起きていたら、どうなっていたのでしょうか?
「福島と同じことになりかねなかったと感じ、そのときにぞっとした」(村上達也村長)
そして、原発事故からわずか2か月後・・・
「原子力の安全性については 国が責任を持って、そして丁寧に地元の皆さんに説明していきたい」(海江田万里経産相〔2011年6月当時〕)
当時の海江田経産大臣は、定期検査が済んだ原発は再稼働を要請するという「安全宣言」を行ったのです。村上村長は、この時、「脱原発」に舵を切る決意を固めました。
「福島原発の事態が収束していない。いわんや避難民がいつ戻れるか不確定。そういう中で安全宣言などは不見識。こんないい加減な国はないと思うな。責任上、世界に対しての責任上も。あるいは科学技術に対しての責任上も。ただ目先の金だけだ」(村上達也村長)
東海村は、村の収入も雇用も、3分の1が原子力関係に依存しています。村上村長は、原発ではなく核のゴミや廃炉など難しい問題の解決策を考える研究拠点になることが東海村の未来像だと考えています。
「(原発の)交付金がなくなったら駄目になると言うけれども、99%の市町村は交付金はもらっていないわけだ。J-PARK(=大強度陽子加速器施設)という 純粋な科学研究施設を利用した社会を作っていこうじゃないか」(村上達也村長)
脱原発は道半ば。しかし、村上村長は今週日曜日(9月8日)の村長選挙には出馬しませんでした。年齢や、最大の同士だった妻の死が、引退を決意させたのです。ですが、これからも脱原発の訴えを続けていくといいます。
「福島の現場を、福島原発事故の現場を歩いてこなきゃならないなと思っています。そこの避難している人たちと話をしてきて、それで脱原発の意思をもう一度確立していきたいと思う」(村上達也村長)