2013年9月29日日曜日

原子力被災に「人権」はあるのか?

 原子力学者であり優れた文明評論家でもある武田邦彦教授が、「原子力被災に人権というものはあるのか?」と題するブログを公開しました。

 「国民を被曝から守ることにおいて国は法律に則って正しく対処をしているのか」ということについて、「人権」と「人道」の観点から論じたものです。
 
 以下に紹介します。
(記事中の青字部分をクリックすると音声解説を聞くことができます)
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原子力被災に「人権」というものはあるのか?
武田邦彦 2013年9月28日

 国連組織にでる日本代表の人道人権大使がアフリカの代表に対して「黙れ!(シャラップ)」と二度、叫んで国際的な顰蹙を買い、先日、解任(辞任)された。
 「人道人権」という言葉と、「黙れ!」という言葉はまったく相反する。そういえば福島事故の後、被曝を心配する東京のお母さんに、当時の石原知事が「黙れっ!」と叫んだ。野蛮な知事だった。
 日本の人道人権大使が国際的な顰蹙を買ったのは、個人の資質の問題もあるけれど、やはりその底には日本社会が人道人権のある社会ではないことにあると思う。

 「国あって国民あり」という意識から、「国民あって国あり」という感覚にならないとなかなか人道人権というのは育たないものである。福島事故以来、被曝で苦しむ国民に対して、主としてマスコミや知識人から集中的な「反人道、反人権」の動きがあった。

 次のことは日本国民の人権の範囲内だろうか? それとも個人的なワガママなのだろうか?
1) 福島県および近隣に住む人が「法令の基準となっている一般人1年1ミリシーベルトの被曝を避けるために、政府・自治体は具体的に回避できる手段を提供して欲しい」と求めること、
2) 一般人で通常時の被曝基準1年1ミリシーベルトの被曝を強要される地域、および一般人で非常時の被曝上限1年5ミリシーベルト(日本国内閣府安全委員会決定)を超える地域においては被爆を避けるための具体的措置に関する便宜、費用の弁済をすること、
3) 1年1ミリシーベルト以上の被曝をして将来、疾病にかかったら、その保証を受けるために被曝の証明書を発行すること、
4) 法令で定められた土壌汚染の上限(1平方メートル4万ベクレル)を超える土地に対して、汚染した東電の方に放射性物質の除去を求めること、
5) 一般人の食品安全(上限1キロ40ベクレル)、飲料水安全(上限1リットル10ベクレル)を超えるものに接しないように自治体や関係省庁に求めること、また仮に供給されたもので被曝した場合、補償を受けられること、
6) 瓦礫その他の物品で、1キロ100ベクレルを超えるものについては、法令に基づき、それを取り扱い移動した人について法令に基づき禁固刑を求めること。

 これらのことは日本国の法律および法令の基準となっているものを国民が求めるものであり、もしこのような法令の基準も守ってもらえないということになると、「日本における人権」は存在しないと言っても良いだろう
 そして、ほぼどれ一つ、現実になっていない政府、自治体、専門家、マスメディアは法令を遵守することを求める国民に対して、実に冷たい態度で臨んでいる

 次に「人道」であるが、次の事は日本のような人道人権を尊重すると世界に呼び掛けているところで起こって良いことだろうか?
1) 事故直後、公共給水が汚染され、赤ちゃんにミルクを解く水を失ったお母さんに対して水を供給しなかった、
2) 子どもの健康を心配する(誰が何を心配するかは本人の自由であり、被爆が危険であるということは繰り返し政府やマスコミが伝えていた)親が、日本国原子力安全委員会が決めた「事故時の上限5ミリシーベルト」に対して、外国のNPOであるICRPが決めた20ミリシーベルトに対して不安に思うことを無視したこと、
3) 放射性を帯びた瓦礫や福島で汚染された製品が全国に移動することに不安を感じる人に「黙れっ!」と強圧的に出たこと。

 事故後、多くの方からメールをいただいたが、たびたび、「決して名前を出さないでください」という注意があった。現代の日本社会は正しく法令を守ろうとする人には人権はなく、将来、疾病が予想されるものを「大丈夫」と言い、実害のあるものを「風評被害」と言う人を「正しい」とする実に陰湿な社会のように思う

 このようなことは結局、国の発展を阻害するということが心の底から判っていないと、人道人権を論じることはできず、人の希望が多様であることにも気がつかないだろう
(平成25年9月22日 執筆