2013年11月1日金曜日

1年1ミリは「法令」か?-その1

 
 1年1ミリシーベルトが被曝の許容限度ということは殆どの人たちが知っていますが、「日本のどの法令にうたわれているのか」という疑問も多くの人たちが持っているのではないでしょうか。
 武田邦彦教授が1日に公開されたブログ「被曝と健康16(臨時) 1年1ミリは法令か?-1」で、それについての解説をしています。
 「1年1ミリは法令か?」はシリーズで掲載されるようで、今回はその1回目、次回は法令化の順序」について記すということです。

 追記 武田教授のブログは公開日でなくて、執筆日を末尾に記載していますので、混乱しないようにこのシリーズはそれで統一します。
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被曝と健康16(臨時) 1年1ミリは「法令」か?-1
 武田邦彦 2013年10月31日
 ある議員さんが正式な形で政府に「1年1ミリという法律の規則はあるか?」という趣旨の質問をしたら、政府は正式な形で「(質問の趣旨はよくわからないが)規則はない」と回答してきた。国民を守ろうという意思を失った政府の回答としてはかなり高度なトリックを使っている。
 もちろん、1年1ミリは法令で決まっているものだ。ただ、ごまかすことができるので、私が個人的に話した経験では中央の政党の党首でも私に「法令で決まっていると良いのだけれど」と言われたことがある。日本人の頭脳ではなかなか突破できないトリックかもしれない。でも、話は簡単だ。順序を追って政府のトリックを明らかにし、子供たちの被曝を止めたい。 
 
【第一ステップ】 
 「人類を被曝から守る」ということをするためには、ある国の規制だけではだめだ。それは「被曝」のように単に道路を歩いていたり、家の中で仕事をしているだけで、「寒さ、暑さ、辛さ」などを全く感じないのに、健康を損なうということは被曝のほかには他には見られないからである。 
 そこで、まず全世界である程度の被曝レベルを決めておかなければならないので、それをICRPという「任意団体」が決める。ICRPは任意団体だから「強制力」はないけれど、世界の学者を集めた委員会でもあり、IEA(国際エネルギー機関)ほどには政治的でもなく、原子力推進でもないので、ある程度の納得性がある。 
 外国への旅行者が、ある国に赤ちゃんと一緒に行って1か月ほど滞在したら赤ちゃんが白血病になったとしよう。よくよく調べたらその国は1年100ミリの規制だったというと困るので、各国に「ガイドライン」を示す必要がある。もちろん、「外国への転勤命令」も同じで、仮に転勤を命令された人が相手国の規制があまりにゆるい場合、転勤の拒否をできるようにしなければならない。そのためのガイドラインでもある。 
 ICRPの最初の「勧告レベル」は1年5ミリだったと記憶している。当時は重篤な遺伝的障害だけだったが、その後、致命的発がんが懸念され、1年0.5ミリになった。そして1979年のパリ会議と記憶しているが、1年1ミリで落ち着き、1980年ぐらいから各国で検討されて、世界中がほぼ1年1ミリの被曝規制(一般人)となっていった。 
 
【第二ステップ】 
 ICRPは任意団体であり、さらに各国は独立国だから、各国の法令はICRPの勧告通りに決めるわけにはいかない。ICRPの勧告を自分の国に持ち帰って具体的な被曝量を決める。「独立国だから独立に決められるけれど、そうは言っても国際的な協調も必要で、特に旅行やグローバル企業を誘致するなら国際基準に合わせる必要もある」というスタンスになる。そこで、各国は国内の委員会を開いて我が国はどうするかを決める。
 日本では1年1ミリとなっている。この時の決める「基準」は「ICRPが1年1ミリといった」ということではなく、その国の国民が「我慢できる限度」を決める。 
 1年1ミリというのは、人口10万人当たり「致命的発ガンが5人、重篤な遺伝的疾患が1.3人」という確率だから、全人口ではガンが6350人、遺伝的疾患が1651人で合計8001名、つまり1年1ミリの被曝では「日本で1年に8000人が犠牲になる」という数字だ。これと「原子力発電や放射線の利用」などの「メリット」とを勘案して「我慢できる」と決める。
 福島事故以来、よく「1年1ミリは厳しすぎる」と言ったり、「1年20ミリまで良いだろう」などということがあるが、1ミリとか20ミリということで決めるわけではない。1年1ミリなら1年8000人の犠牲者、1年20ミリなら16万人の犠牲者がでると予想される。その数字を出して議論しなければならない。 
 どのぐらいの犠牲者が「我慢できる」か?というのは国によって違う。先進国で安全に対して感度が高ければかなり厳しくなるし、発展途上の場合は国民の健康を多少、犠牲にしても経済発展を優先する場合もあるだろう。 
 「我慢できる」というのは(「原子力発電のメリット」=「犠牲者の数」)となるので(正当化の原理)、(「車の有用性」=「年間5000人から1万人の犠牲者(交通事故死)」)と比較することになる。現在は1年1ミリなので、犠牲者数は8000人。これが我慢できるとされているということは、(「原子力発電のメリット」=「車の有用性」)という考え方であることがわかる。 
 子供を持つ親が、毎日子供を学校に通わせるときに、交通事故死が1万人を超えると「心配でしかたがない」ということになるし、5000人ぐらいなら「なんとか無事で学校に行ってほしい」という感じになる。これが「我慢の限界」となる。 
 私の個人的な見解としては1年に8000人という犠牲者数を覚悟して原子力発電所を動かすか?というと、多くの日本人はそれなら火力発電にしてくれというのではないかと思う。まして、政府が「ICRPが言ったから」ということで、福島の子供たちに1年20ミリという限度を決めた時には、「1年16万人」だから、おそらく本当のことを政府が言ったら、福島の親は心配で疎開させたと思う。 よく、「1年でがんで死ぬ人は30万人だから、それに比べれば少ない」という話もあるけれど、その場合は「天寿を全うして80歳代でなくなる人がガンで亡くなるものが大半」ということであり、15歳児以下の小児がんはわずか2500人程度だ。だから被曝による小児の影響がおおいいことを考えると20倍程度になる。
 事故から2年半を経過し、今更「1年1ミリ」が我慢できるかどうかではなく、「1年8000人が我慢できるか」というぐらいは理解しないと議論にもならない。
 次のブログに法令化の順序を示したい。 (平成25年10月31日)