3・11福島第1原発事故は「原発は事故を起こさない」という神話の下に「避難計画」が皆無の中で起きました。突然の事態の中で多くの人たちが車で避難した結果道路は大渋滞し、希望した避難先では受け入れが叶わずに転々とする中で病弱者は命を失うなど、「津波」以外にも「避難の過程」で数々の悲劇を生みました。
そうした反省の下にその後は原発立地自治体では避難計画が立てられ、志賀原発の近傍には緊急避難先の「放射線防護施設」が21カ所(合計収容人数2466人)建設されました。
しかし正月の能登半島地震では、こうして見直された避難と事故対策のあり方に致命的な問題があることが露呈しました。原子力規制委は今後1年掛けて防災指針を見直すとしましたが、果たして解決策はあるのでしょうか。
東京新聞が上・中・下のシリーズで連載しました。
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<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>㊤
避難計画は崩壊した 集落脱出できない 救出に向かえない
東京新聞 2024年3月11日
ひび割れた道路にできた長い車列。バスの中で息絶えた高齢者たち。2011年3月11日、激しい揺れと大津波に襲われて起きた東京電力福島第1原発事故。住民避難は混乱を極め、多くの人が被ばくを強いられた。そして見直された避難と事故対策のあり方に、13年をへて致命的な問題が露呈した。能登半島地震。自然の脅威が再び問いかける。原発と共存できるのか—。半島の被災地で答えを探した。(片山夏子)
ごっそりとえぐられ、むき出しになった山肌。根こそぎ倒された杉の木が、目の前に剣のように迫る。大量の土と木が80メートルもの斜面を滑り落ち、集落入り口の道に覆いかぶさっていた。
北陸電力志賀(しか)原発(石川県志賀町)から北約20キロ、町内の切留(きりどめ)地区。雪が降った今月2日、道の奥に家がある堂下(どうした)健一町議(69)と、斜面を見上げた。襲ってきたのは恐怖。「原発事故が起きていたらとても避難できなかった」。堂下さんが白い息を吐いた。
原発で過酷事故が起きていたら…。避難計画では、切留地区の住民は半島北側の能登町へ逃げる。最大震度7の揺れは、北への道を土砂崩れでふさいだ。1月10日には南への道も寸断され地区は孤立したが、住民はその前に避難していた。
石川県の避難計画 北陸電力志賀原発から30キロ圏内の石川県内の自治体は4市4町。輪島市と七尾市、穴水町、志賀町の原発北側の住民は、能登半島の先端方向へ、ほかは金沢方面への避難を想定している。基本的な避難ルートは能越自動車道、のと里山海道、国道249号など11路線あり、地震で崩落などの被害が出た。
堂下さんと避難ルートをたどった。地震発生2カ月でも、北へ行くほど道路状況は悪化した。大きな陥没、30センチ近くある段差、土砂崩れや岩が崩落した斜面のすぐ脇の道を通る。
地震直後はパンクしたり、道の割れ目にはまったりして動けない車が多発。家と一緒に車がつぶれ、避難できない被災者もいた。県が頼んだ大型バスは細い道を入れず、北部の病院にたどり着けず引き返した。
原発から30キロほどの穴水町の清滝美津子さん(70)が住む下唐川(しもからかわ)地区も、孤立した。住民らが倒木を片付け、道の亀裂や段差を砂利で埋めて3日間かけて開通した。原発事故時は珠洲(すず)市に避難する計画だが、震源に近づくことになる。「車でたどり着けたのか。逃げ道なんてないと分かった」。珠洲への道は何カ所も通行止めになっていた。
珠洲市内の避難所は、地震直後の大津波警報で人があふれていた。旧本(ほん)小学校の避難所をまとめる地元区長の新池(しんいけ)時夫さん(73)は説明する。「地震から3日間は車中泊の車が約1キロつながっていた。この先は海。逃げるところはない」
県は、船やバスでの避難も計画する。今回、県内の漁港69カ所のうち60カ所が被災。海底の隆起で、半島北岸全域が壊滅的な被害を受けた。県漁連幹部は「津波の到達が早く船すら守れなかった。原発事故時の避難に船を出せるか分からない」。県バス協会は「我々は民間。放射能が問題になる場所には行けない」。悪天候ではヘリも出ない。
南への避難ルートもたどった。地震直後は通行止めがあり、原発から45キロの内灘町では液状化で道路が激しく損壊した。堂下さんは言う。「震源が南側にあれば、能登半島は孤立する。冬の大雪や吹雪など悪天候でも、船やヘリは動かない。避難計画なんて作れない」
◆混乱の記憶 福島事故も
福島第1原発事故時、住民の避難計画の策定が義務づけられていた自治体の範囲は原発から8〜10キロにとどまり、避難時の具体的な行動も明確には決まっていなかった。13年前までは、過酷事故を想定していなかった、とも言える。
能登半島地震のような多数の道路寸断はなかったものの、事故直後の避難では多くの場所で大渋滞が起き、避難用のバスの確保も難航。住民が避難先に受け入れてもらえず、転々と移動を繰り返さざるを得ないなど大きな混乱も起きた。
政府は事故後、30キロ圏の自治体に避難計画の策定を義務づけ、避難先の施設や避難ルート、移動手段などをあらかじめ設定するよう改めた。ただ、30キロ圏に約92万人が暮らす日本原子力発電の東海第2原発(茨城県)周辺では、避難計画作りが難航している。
<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>㊥
雨風が吹き込み、横にもなれない家に「屋内退避」しろと? 原発事故対策の絵空事を能登で見た
東京新聞 2024年3月12日
◆「危険」を示す赤い紙が貼られた家屋
鉛色の空から横殴りの風と雨が吹き付ける。3月3日、石川県志賀(しか)町の富来領家(とぎ・りょうけ)町地区の細い道に入ると住民の姿はなく、集落は静まり返っていた。所々で家屋が倒壊し、屋根をブルーシートで覆った家の玄関に、応急危険度判定で「危険」を示す赤い紙が見えた。
土足のまま案内された藤田賢誠(けんせい)さん(58)宅は、天井の板がはがれて隙間から空がのぞく。バラバラッと音がし、あられが降り込んできた。立っていると、軽いめまいを覚えた。「家全体がゆがんで、長時間おると気持ち悪くなる」
◆破れた屋根「外にいるのと何も変わらん」
北陸電力志賀原発から約10キロのこの地区は、原発で重大事故が起きると、建物内にとどまる必要がある。放出された放射性物質による被ばくを避けるためだ。藤田さんは「外にいるのと何も変わらん。家で屋内退避は無理」と切り捨てた。
地区の避難所の富来中学校は地震直後、帰省客も含め約300人でごった返した。1人に配れた食料は1日に小さなビスケット1包みだけ。屋内退避となれば生活物資の補給が欠かせないが、区長の山本政人(まさひと)さん(66)は「道路の寸断で運べる状況ではなかった。体を横にすることもできず、長期間の屋内退避は難しいだろう」と話す。
◆放射性物質を防ぐはずの施設が機能喪失
放射性物質を内部に取り込まない設備がある防護施設も機能を失った。原発30キロ圏内の21施設のうち、町内の5施設が地震で損傷して防護できなくなった。
その一つ、町立富来病院を訪ねた。2階の一部分の防護施設で、放射性物質を除去した空気を送る装置が天井から落下。給湯配管も壊れ、廊下は水浸しになった。病院側は建物を危険と判断し、入院患者72人全員を転院させた。事務長の笠原雅徳さん(57)は「このような状態でも事故時にはとどまるしかないだろう」と話した。
◆肝心の放射線量もデータが取れない
屋内退避では、空間放射線量の正確な把握が生命線となる。屋外の危険度を把握し、実測値によって避難に切り替えるかを決めるからだ。しかし線量を測るモニタリングポストは、原発北側の最大18地点でデータが取れなくなった。複数の通信回線が途絶え、復旧に約1カ月を要した。
原子力災害対策指針が定める屋内退避の前提は、ことごとく崩れた。山本さんに政府へ求めることを聞くと、間を置いて言った。「これだけ被害が大きいと、正直どうにもならんかな」(渡辺聖子)
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◆「無計画な避難を避けるため」屋内退避を設定
東京電力福島第1原発事故では、福島県が設置したモニタリングポスト24カ所のうち、23カ所が津波で流されたり通信回線が断たれたりした。放射線量を測定できず、政府や東電の情報発信も不十分な中、多くの住民が原発の北西方向に避難。ところが同じ方向に放射性物質の雲状の固まり(プルーム)が流れていき、被ばくを強いられた。原発から約39キロ離れた福島県飯舘村の村役場では2011年3月15日、最大値の毎時44.7マイクロシーベルトを記録。村には今も帰還困難区域が残る。
事故後に発足した原子力規制委員会は、無計画な避難を避けるとして、重大事故時は原発5キロ圏内で避難。5〜30キロ圏内は屋内退避するとし、避難に切り替える際は線量の実測値を基に政府が判断すると定めた。速やかに避難に移る目安は毎時500マイクロシーベルト、1週間以内の避難は毎時20マイクロシーベルト。
原子力災害対策指針 東京電力福島第1原発事故後に原子力規制委員会が策定し、自治体が作る原発事故時の避難や屋内退避の方策を定めた防災計画の土台。規制委は2024年2月、原発立地自治体の要望を受け、屋内退避の期間に限って指針を見直す方針を決めた。家屋倒壊などへの対応は内閣府や自治体が検討する事項とされ、見直しの検討対象になっていない。
<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>㊦
海底が数メートル隆起「原発の取水口は大丈夫なのか」 北陸電の想定は20センチ、それでも「問題ない」
東京新聞 2024年3月13日
◆志賀原発から8キロ、使えなくなった港
水の澄んだ船着き場をのぞき込むと、海の底一面に黄土色の砂がたまっていた。水深は10センチほど。北陸電力志賀(しか)原発から約8キロ離れた石川県志賀町の領家(りょうけ)漁港を訪れた4日、漁師の室(むろ)順一郎さん(71)が海底隆起で一変した光景を眺めて落胆していた。「これでは船が接岸できず、港の機能が果たせない」
領家漁港の隆起について話す室順一郎さん。地震前は船が接岸していた場所は海底が見えるほど浅くなっていた=石川県志賀町で
領家漁港の隆起について話す室順一郎さん。地震前は船が接岸していた場所は海底が見えるほど浅くなっていた=石川県志賀町で
能登半島地震は半島の広範囲で隆起をもたらし、輪島市の鹿磯(かいそ)漁港では海底が4メートルも持ち上がった。領家漁港も消波ブロックなどが上がり、防波堤に亀裂やずれができた。室さんは「60~70センチほど上がった」とみる。
◆自然の脅威に向き合わない姿勢
海沿いの道路を南下して原発に近づくと、住民が海岸の異変を感じていた。冬場に採れる岩ノリの漁場が隆起した。辺りは「ノリ島」というコンクリート製の人工漁場が点々と並ぶ。原発から1キロ余りの福浦港(ふくらこう)地区で岩ノリ漁をする能崎(のざき)亮一さん(66)は「40、50センチは上がった。波のかぶりが悪くなり、来年どれだけ採れるか」と話した。
目と鼻の先の海上に、原発の荷揚げ設備が見える。「数メートル上がったら原発の取水口は大丈夫なのか」
志賀原発は、再稼働の前提となる新規制基準の審査が続く。北陸電は地震時の隆起量を20センチ以下と想定している。その場合でも、水深6.2メートルの取水設備から原子炉を冷やす海水をくみ上げられると主張する。
原発近くで想定を超える隆起が起きたのは確実だ。にもかかわらず、北陸電には危機感がない。今月7日に地震後初めて構内を報道公開した際、隆起の影響を問われた吉田進・土木建築部長は、詳細を説明しないまま「発電所の安全に問題ない」と強調した。自然の脅威に向き合わない姿勢は、大津波の予測に取り合わず福島第1原発事故を起こした東京電力と重なる。
◆電源喪失トラブル、住民に連絡なし
志賀原発では地震で変圧器の配管が破損し、一部の外部電源を失うなどのトラブルが起きた。しかし、北陸電が地元住民に連絡することはなかった。発災当初に区長として避難所の運営を担った能崎さんのところにも説明はなく、テレビで原発の状況を知った避難者から不安の声が相次いだ。
「原発が動く時と動かない時とで、民宿や飲食店の潤い方が違うのを見てきた。再稼働はするんだろう、その方向に進んでほしいと思ってきた」と振り返る能崎さん。地震で原発の危うさと北陸電の不誠実さを見せつけられ、考えは変わった。「そう簡単に再稼働を認めていいのか」(渡辺聖子)
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◆東電は「巨大津波」を検討課題としたが対策せず
東京電力福島第1原発事故前、東電は国の地震調査研究推進本部(地震本部)が示した巨大津波の想定について、社内の検討課題になったものの、巨額の費用がかかることなどから対策することはなかった。
非常用電源設備が原子炉建屋地下にあるなど浸水を想定しない構造のまま、東日本大震災が発生。大津波によって建屋が浸水して電源を失い、世界最悪レベルの事故につながった。
事故後に発足した原子力規制委員会は、新たに重大事故対策を盛り込んだ新規制基準を策定。費用対効果を見込めない老朽原発を中心に廃炉が相次いだが、これまでに審査で不適合と判断された原子炉はない。
原発の冷却 運転中の原子炉の冷却は、海から取り込んだ海水を熱交換器に通して行う。地盤の隆起で海底などにある海水の取水設備が使えなくなると、通常時の冷却ができず、海からポンプ車でくみ上げるなど非常用の注水手段を使って冷却することになる。冷却ができないと、原子炉内の核燃料が過熱して溶け始め、重大事故になる。
<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>
能登半島地震では、2011年の福島原発事故後に見直された避難と事故対策のあり方に致命的な問題が露呈した。原発と共存できるのか、能登の被災地で考える。