現代ビジネスに【福島第一原発事故から13年】を機に「東日本の原発の再稼働を巡る明暗…『東北電力』と『東京電力』の決定的な違い」というかなり長い記事が載りました。
東北電力と東京電力の原発の安全性に対する姿勢の違いが主なテーマになっています。
岸田首相は22年8月に突如、タブーとされていた原発の運転期間を40~60年以上に延ばすことと原発の再稼働やリプレースを積極的に進める方針を表明しました。
結果的に炭酸ガス排出を規制するという世界の風潮が追い風になりましたが、原発を大々的に進めることは組閣当初に元経産省次官の嶋田隆氏を主席秘書官に据えた時点からの狙いでした。
そもそも原発はウランの採掘から使用済み核燃料の後処理まで含めれば炭酸ガスを大いに出す装置だし、原発から出る温排水は海水を暖める元凶です。
またライフを40年以上に延長できるという根拠は不明確で、原子炉の運転延長の可否を判断(審査)する基準自体が不在です。
原子力規制委を含め関係者全員が原発稼働に前向きな中で、キチンとした説明がないまま原子力ムラの希望する方向に進んでいるというのが現状です。
岸田首相は、納得できる理由を呈示しない(できない)ままやりたいことはやる、というのが殆どですがこと原発に関してはそれは許されません。
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【福島第一原発事故から13年】
東日本の原発の再稼働を巡る明暗…「東北電力」と「東京電力」の決定的な違い
町田 徹 現代ビジネス 2024/3/5
経済ジャーナリスト
原発再稼働の第1号の見通し
来週の月曜日=3月11日には、東日本大震災が原因で発生した人類史上最悪レベルの原子力事故(レベル7)とされた福島第一原子力発電所事故から13年という節目を迎える。
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事故から1年半余りが経過した2012年9月、当時の民主党の野田政権が 「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す「革新的エネルギー・環境戦略」を打ち出したものの、自民党は政権奪回後、時間をかけて「原発推進」に回帰してきた。その大義名分は、世界的なカーボンニュートラルの加速に加えて、ロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー危機である。タブーだった40年を超える原発の運転延長やリプレース、新設を解禁する一方で、急務とされたのが、福島第一原発事故以来、運転停止を続けてきた東日本の3つの原発の優先的な再稼働だ。
ところが、このうちの2つ、東京電力の柏崎刈羽原発6、7号機(新潟県)と日本原子力発電の東海第二原発(茨城県)が相変わらず再稼働の目途が立たないのを尻目に、東北電力の女川原発2号機(宮城県)だげが去年2月に原子力規制委員会の書類審査をすべて完了し、今年9月に運転を開始する方針を表明しており、東日本における原発再稼働の第1号になる見通しだ。
いったい、何が明暗を分けたのか。震災以降、通算4度目となる筆者の女川原発の現地取材のレポートも含めて、この3つの原発の違いを考えてみたい。
筆者が今回、宮城県牡鹿半島の小さな漁港・小屋取の堤防に立ったのは、冷たい汐風が吹き付ける1月22日のことだった。ここからならば、湾を挟んで、700、800m先に建つ女川原発を一望できるからだ。そして、そこから見える原発の風景は、来るたびに変わってきた。というか、あそこに何があるのか。ついにほとんど見えなくなってしまったのだ。
振り返れば、東日本大震災から1年あまりが経った2012年3月、筆者が最初に小屋取漁港を訪れた際は、海沿いの高台に、クレーンやタンク、煙突が並び、原発の関連施設が所狭しと並んでいる様子がはっきりと見て撮れた。ここに掲載した2003年7月の写真のような状況だったのである。
ところが、筆者が訪ねるたび、小屋取漁港から見える原発の建造物は減った。そして、今回は、40m前後の高層建築である原子炉建屋3棟のてっぺん部分がわずかに見えるだけになってしまったのである。
そうなった理由は、筆者が今回、撮影してきた写真を見ていただけば、一目瞭然だろう。原発の手前に、巨大な防潮堤が立ち、内側の施設のほとんどを隠してしまったのである。
3枚目の写真(東北電力提供)は、防潮堤の最上部から原発と海の間にある敷地を見下ろす道路の様子を撮影したものだ。この写真に写る眼下の複数の車両の小ささからも、新たな防潮堤の巨大さがを見てとれるはずである。
この新たな巨大防潮堤の威容は、東電・柏崎刈羽原発や日本原電・東海第2原発の再稼働準備がなかなか進まないのと対照的に、女川原発が1番乗りで今年9月の再稼働方針を表明できた理由が凝縮されていると、筆者は考えている。そこで、少し長くなるが、その理由をここで説明しておこう。
安全性を優先して十分な高さを確保していた
女川原発は、マグニチュード9.0とわが国観測史上で最大規模を記録した、東日本大震災の震源地(牡鹿半島の東南東沖130km))から最も近い距離にある原発だ。そして、高さ13mの巨大な津波が押し寄せたものの、海抜14.8mの高台に立地しており余裕があったので、浸水などの被害を免れた。
14.8mの高台にあったのは、決して偶然ではない。用地選定の初期段階は、想定される津波の高さを最大3m程度と見積もっていた。3mで良しとしていれば、当時、米原子力メーカーのゼネラル・エレクトリック(GE)が販売に力を入れていた海抜6mに設置する前提の原発の格安パッケージを導入できた。
しかし、東北電力は、1968年の建設用地決定の際に、外部の識者を交えた立地の選定委員会に参加し、3mに異を唱えていた同社OB(平井弥之助・元東北電力副社長)らの意見に耳を傾けた。平安時代の貞観11年(西暦869年)に東北地方太平洋側を襲った地震の際に押し寄せた津波の高さを巡る仙台藩の資料などを参考に立地を決めることにしたのである。
この決定は、建設コストの増加を伴うもので、大手電力としては5位前後が定位置だった東北電力には厳しい判断だった。が、安全性を優先して十分な高さを確保したから、東日本大震災を惨事とせずに乗り越えられたのだ。
その後も、東北電力は東日本大震災までに、新たな津波を巡る知見で想定外のリスクが明らかになるたびに、安全対策を重ねてきた。津波の引き波の対策として、高台の側面が削り取られることがないように法面への格子状のブロックのはめ込みも、そうした追加策の一つだった。
後述するが、こうした意思決定や安全対策の追加は、福島第一原発事故を起こした東電のそれらとは対照的なものだった。
だが、東北電力は東日本大震災で原子力事故を起こさなかったことにも、決して安住しなかった。筆者が小屋取漁港から自分の目で確認したように、29mの巨大防潮堤を新たに建設したのだ。実は独自判断で早々に17mの防潮堤の建設に着手していたが、その後、計画を改定、29mに引き上げた経緯もある。
こうした防潮堤のかさ上げについて、筆者は、今回の取材で改めて背景を確認した。すると、東北電力の担当者は「女川原発のある牡鹿半島は東日本大震災で1mほど地盤が陥没したので、実際の余裕はわずか50cm強しかなかった可能性があると考え、次の巨大津波の襲来に備えて、もっと大きな防潮堤が必要だと判断した」と明かした。
筆者が重ねて、「貞観地震の際の津波の知見、つまり1000年に1度起きる確率のある津波への備えでは不十分だということだが、29mだと、何年に1度の確立の津波に対処できるのか」と質したところ、担当者は即座に「確率論で言えば、10の7乗年に1回です」と誇らしげに笑顔を見せたのだ。10の7乗年に1回と言えば、実に、1000万年に1度という確率になる。
1000万年前と言えば、地質学的に言えば、日本列島がまだ今のような形になっていない時代だ。筆者はやや呆れて、担当者の顔をマジマジと見つめてしまった。
今回の取材では、東北電力が防潮堤だけでなく、他の面でも様々な安全対策を追加したことが確認できた。
いくつか紹介しておくと、防潮堤の次に印象的だったのは、敷地のあちこちに、地下も含めて、いざと言う時に原発の燃料を冷やすために必要な冷却水を貯めておく巨大タンクを設けたことだ。
また、原発が深刻な事態に見舞われ、原子炉格納容器を減圧する事態に備えて、原子力規制委員会が新たに設置を義務付けたフィルタベントについて、独自の仕様とし、小型のものを3つ設置したという話も興味深かった。筆者は以前、中部電力の浜岡原発を取材した際に、巨大なフィルタベントを1機設置する作業を見たことがあり、このフィルタベントを格納容器の横の地下に埋設していたのを思い出し、小さくするメリットが何かを尋ねてみた。すると、「小さくすれば、原子炉建屋の中に3つとも格納できるので、テロなどに備えた安全対策としてメリットがある」とのことだった。「そして、この設計は、原子力規制委員会からもお褒めをいただいた」と、担当者は胸を張ったのだった。
地元との「信頼関係」
水を運んでくる導水管を36㎞も離れた北上川から引いたとか、電源車を地震の揺れで倒れないように凄く太いチェーンで地面に固定する工夫もあった。以前の取材でも様々な安全対策を実地検分できたが、今回も数多くの追加対策を講じたなという印象を受ける取材だった。
こうした安全対策と併せて、女川原発が他の東日本の原発に先んじて再稼働に漕ぎ着けようとしている要因として見逃せないのは、結果的なことも含めて、地元との信頼関係を深めてきたことだろう。
東北電力はそもそもの会社の設立目的が、明治維新以降、取り残されていた東北経済の振興だった。東日本大震災後もその使命を果たそうと、原子力だけでなく火力や水力も含めた多くの電源を失い、経営が火の車に陥っていたにもかかわらず、全国の電力会社が原発の運転停止を理由に値上げを急ぐ中で、最後までやせ我慢して値上げを遅らせた実績もある。こうした自社よりも地元ユーザーを重視する企業風土には、地元経済界などから厚い信頼を寄せられている。
また、全国から従業員を採用する一方で、自社の営業区域外の新潟や福島に原発を建設してきた東電と違い、東北電力の場合は、従業員の多くが地元・東北出身者だ。このため、親、兄弟、親せきが同社の女川や東通といった原発の周辺に住んでいる従業員が少なくない。このため、決して原子力事故なんか起こせないと考えている従業員が多いのも、この会社の大きな特色となっている。
2012年4月3日付の本コラムでも紹介したが、地元との信頼関係作りで結果的に大きな役割を果たしたとみられるエピソードがもうひとつある。それは、女川原発が東日本大震災で深刻な揺れと巨大な津波に襲われながら、これといった深刻な事故を招かなかったばかりか、震災の日からその後の約3ヵ月にわたって、364人の原発周辺に住んでいた震災被災者の避難所の役割を果たしたことである。
決して意図して信頼関係作りに役立てようとしたわけではないが、結果的に大きな役割を果たすことになった。原発は平時、安全対策の一環で、敷地内に一般の人を入れてはいけない決まりになっている。筆者らの取材でも事前に許可を得るだけでなく、当日は乗って行った車両や積み荷の検査に加えて、IDでの本人確認を受けなければならない。敷地内では、テロ対策で、監視カメラの位置が外部に漏れることを防ぐため、写真も自由には撮らせない仕組みになっている。
ところが、東日本大震災で、家屋が揺れで倒壊したり、津波で飲み込まれたりした人たちが着の身着のまま、原発に隣接するPRセンターに助けを求めて集まってきた。中には、ずぶ濡れの人もいた。3月とは言え、まだ寒い日だったので、女川原発は所長判断で、直ちに原発内の建物を避難所として開放することを決定。その日は、その人たちのために、社員の食事を削って、食事を提供した。こうしたことが、結果的に、地元の人々との信頼関係の構築に大きな効果があったとみられているのだ。
筆者は以前、原発反対派のリーダーで、あの震災の折、原発に避難した人に取材したことがある。この人は、「原発反対運動はやめない」と苦笑しながら、「もちろん、避難させてくれたことは有難かった。感謝している」と話していた。強硬な反対派の人々でもこうだから、もともと中立的だった人はやや好意的に、もともと原発に好意的だった人はより好意的になったと考えるのが自然だろう。
今回の取材では、東北電力が、津波に直撃されて数多くの人が亡くなった女川町の復興にも積極的に協力している状況が確認できた。改めて、街中にもPRセンターを設けて、生け花教室などのカルチャー教室などを開きつつ、さりげなく、原発の安全対策や重要性のPRをするという地道なことも怠らずに実行していたのだ。
まだ決まっていない最終処分場
もちろん、女川原発もいざ、再稼働となれば、新たな課題に直面するだろう。第一に、新たな知見が出れば、新たな安全対策が必要になる。速やかに必要な手を打つ。そうした安全対策は不断で続けていく必要がある。
喫緊の課題は、使用済み核燃料の冷却スペースの確保だ。長年にわたって国が推す核燃料サイクルが稼働していないことが響き、女川原発2号機の原子炉建屋内のプールで冷却している使用済み核燃料の貯蔵率は、すでに容量の75%程度を占めている。今年9月に再稼働すれば、その後4年程度でプールが満杯になる計算だ。
東北電力は、十分に冷却が進んだ使用済み燃料を一時的に保管する乾式貯蔵施設を新たに建設することで対応したい考えで、すでに原子力規制委員会に必要な許可を申請した。
だが、核燃料サイクルの稼働が引き続き遅れれば、使用済み核燃料の県外への搬出が遅れる懸念があり、立地の宮城県女川町と石巻市は、独自の核燃料税の導入によって、安易な一時保管をけん制する構えを見せている。東北電力が目指す乾式貯蔵施設の建設が円滑に進むかがまだ未知数の状況だ。
一方、国は1954年に、当時の中曽根康弘政権が、原子力の開発と活用を宇宙開発とセットで予算化して以来、ほぼ一貫して、原発を拡大する戦略を採ってきた。
こうした中で、柏崎刈羽原発や東海第2原発が再稼働で今なお苦戦を続けたり、全国で反原発運動が引き続き活発な理由として、国に科学的根拠に基づいた決定を下す能力がないことが明らかになっていることは大きな影を落としている。
最初にこうした国の欠陥が明らかになったのは、核燃料サイクル計画からの撤退の必要性が明らかになった2004年の政府の会議だ。議論の過程で、核燃料サイクルには経済合理性が乏しく、国は再利用を諦めて、使用済み核燃料の直接処分に国策を切り替えるべきだったのに、国はこれを止めることができなかった。
また、自民党の政権復帰後、政府はそれほど間を置かず、全国の原発が運転停止状態でも電気が足りていた時期だったにもかかわらず、民主党政権の脱原発方針を骨抜きにする試みを続けてきた。
政府として、国民ではなく、電力会社や原子力メーカーといった原発関係者との間で錯綜している政府の利害関係をより重視していることが浮き彫りになっていたのだ。
補足すれば、小泉純一郎元総理が「トイレの無いマンション」と称した核のゴミの最終処分場がまだ決まっていないことも原発不信を助長しかねない。国は文献調査、概要調査、精密調査の3つのステップに20年かけて処分地を決定するとしている。北海道が反対する中で、寿都町と神恵内村が2020年から第一段階の文献調査受けているものの、結論まではまだ長い時間がかかる。加えて、それぞれの段階に付与される補助金で応募自治体に手を挙げさせる性格が強く、途中で降りる自治体が出ても不思議の無い選定方法だけに、双方の本気度が問われている状況だ。
しかも、国は「原発推進のために最終処分場が必要だ」としており、この点がいたずらに反原発派の反感を強めている問題も見逃せない。すでに膨大な数の核兵器を作れるほど核のゴミは溜まっており、脱原発であっても処分場は必要なのだから、国はそうした実態を正確に伝えて処分場の選定を加速すべきだろう。
巨大な賠償額
こうしたいい加減な政策の繰り返しによって、国民の間に根深い原子力不信を植え付けてしまったことが、原子力政策が今なお、国民の理解や信頼を得られない大きな原因だ。
加えて、福島第一原発事故まで、電力会社代表として、政府との交渉事を一手に握ってきた東電の企業風土の改善が一向に進んでいないことも、依然として原子力政策の乱暴さを裏付けている。
福島第一原発事故を巡り、各地に避難した住民や、居住地を汚染された住民が起こした損害賠償裁判は多いが、東電は連戦連敗状態だ。これまでに最高裁で判決が確定した民事賠償裁判3件でも、東電はすべて敗訴し、賠償を命じられている。その賠償額は、少ないもので1億1900万円、多いもので11億円となっている。
さらに注目したいのは、東京地裁が一昨年7月に、津波対策を怠った責任があるとして、東電の旧経営陣4人に対し、合計13兆3210億円の支払いを命じた株主代表訴訟の1審判決だ。1審とはいえ、賠償額の巨大さだけでなく、初めて、旧経営陣の経営責任を認めた判決としても、注目せざるを得ない判決だった。
しかも、この1審判決で重要なのは、少なくとも2002年の段階で、政府機関が公表した地震予測に基づいて巨大津波襲来の予見は可能だったと決めつけて、東電経営陣がこれを無視して津波や浸水の対策を怠ったことが、あの大事故の原因だと指摘した点にある。
換言すれば、自分の都合で、公的な知見を捻じ曲げて、安全対策を怠り、あの大事故を引き起こしたというのである。
ちなみに、福島第一原発は女川原発と対照的に、立地の決定の際に、GEの格安モデルを導入するために、海抜30mで旧日本軍の飛行場があった用地を6mに削ったことや、早期の津波リスクを知らせる知見に対し、その巨大津波の痕跡は(50kmほど北の相馬市沿岸までしか)確認されていないなどと我田引水の主張を展開して、津波対策を怠ってきたことも知られている。
あの福島第一原発事故の以前の2002年には、現在、再稼働を目指している柏崎刈羽、福島第1、第2の3原発で、トラブルの記録を改ざんしたり、隠蔽したりしていたことが発覚、この「トラブル隠し事件」では、歴代の4社長が引責辞任に追い込まれた。また、2007年の中越沖地震では、同じく柏崎刈羽原発の使用済み核燃料プールから冷却水が外部に流出する事故も起こしている。
そうした過去の失態を反省していれば、安全対策に対しては人一倍、真摯でなければならないのに、再稼働を目指すようになってからの柏崎刈羽原発でも相変わらずトラブルが絶えることがない。
2021年4月にテロ対策の不備を理由に、原子力規制委員会から事実上の運転禁止命令を受けた後も、不祥事のデパートのような状況なのだ。同年6月には他人のIDカードで原発に入った社員の存在が判明したほか、8月には侵入探知機、9月には防犯カメラ、10月には消火設備、11月には緊急用の発電機の故障が続々と明らかになっているのだ。このほか、12月には原子炉建屋の壁のひび割れも見つかった。
今年2024年の元日の午後早く、北陸電力の志賀原発のある能登半島を襲った能登半島地震は想定を上回る地震の揺れがあった可能性も取り沙汰されているし、新潟県が柏崎刈羽の6,7号機の再稼働の条件の一つとして求めていた、同原発の1~5号機の廃炉を渋り続けてきた経緯もある。
「東北電力」と「東京電力」の違い
東電が東日本大震災後、破綻寸前だったのを国有化して救済し、何度不祥事があっても、ひとたび事故が起きたら深刻化しかねない原発を運転する事業者の資格を取り消すことさえせず、東日本で最初に再稼働する原発として他の原発に先駆けて安全審査を受けさせてきた問題もある。国の責任の重さは、こうした東電の危うい企業風土を温存してきたことでも明らかだろう。
最後に、東海第2現発は、人口の少ない土地に立地させてきた全国の他の原発と違い、首都圏に立地する原発で、従来は、いざという時に、原発から半径30km圏内に住む住民の避難手段の確保が不可能に近いとみられてきた。
こうした中で、新潟県が再稼働に慎重姿勢を採ってきた柏崎刈羽原発と違い、茨城県の大井川和彦知事が昨年11月になって記者会見し、原発事故の際の放射性物質の拡散予測を公表。その中で、いざという時の風向きなどによって差はあるが、「原発から半径30km圏内に住むすべての住民(92万人)が同時に避難する必要はなく、避難が必要なのは最大で17万人弱だ」などと述べ、再稼働を後押ししていく姿勢を鮮明にした。
だが、実際には、半径30km圏内にある14 市町村はそれぞれ、30km圏内の住民すべての避難計画作りを求められている。こうした避難計画の策定を終えたのは14市町村のうち5市町に過ぎない。原発の再稼働に当たって、事前同意を必要となる周辺6市村を見ても、水戸市が全市民(27万人)を網羅した避難計画が必要で、同市の市長が「(計画策定の)時期について示す段階ではない」と慎重な姿勢を崩していないという。
肝心の東海第2原発では、一部の行程で不備が見つかり、安全対策工事が遅れ気味なうえ、20 21年3月には、避難計画策定の遅れや内容の不備を理由に、水戸地裁が同原発の運転差し止め命令を出しており、控訴審の判断もポイントだ。
そうした中で家屋の倒壊や道路の寸断が相次いだ能登半島地震の知見が東海第2の避難計画にどう取り込まれるのかも未知数だ。
女川原発は東北電力の努力でなんとか再稼働が視野に入るところに辿り着いたものの、国が科学的な根拠を活かしきれない原子力政策を行い、東京電力の柏崎刈羽原発のような安全軽視の事態が続く中では、原発の再稼働に不可欠な地元や国民の原発への信頼は回復するどころか、益々傷付くばかりである。