史上最悪の原発事故からまもなく8年になります。
東京新聞が、避難を強いられた人たちの暮らしぶりを示すデータとともに、福島の今を追うシリーズを始めました。
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<原発のない国へ 事故8年の福島> (1)募る望郷、戻らぬ暮らし
東京新聞 2019年2月27日
「原発から遠い方がいい。逃げてきて」。二〇一一年三月十二日午後、福島県田村市都路(みやこじ)町の浅田正文さん(77)は金沢市の知人から、こんな電話を受けた。大きな揺れで自宅の屋根や水道管が壊れたものの、東京電力福島第一原発からは約二十五キロある。まさか…。「大丈夫」と答えた。
大手食品会社を退職後、半自給自足の生活を目指して東京都内から移り住んだ土地。見た目には、雪が残る山々に囲まれたいつも通りの景色が広がり、原発事故の影響は何も感じられなかった。
夜八時半ごろになって、各戸にある防災無線で、市長が避難指示を出したと知る。「これは大ごとだ」。軽自動車にはガソリンが半分しかなかったが、お金と寝袋、水と菓子を詰め込んだ。二、三日のことと着替えは持たず、妻の真理子さん(69)と共に、約五百キロ離れた金沢の知人宅を目指した。いつ終わるか知れぬ避難の始まりだった。
会津若松市のビジネスホテルに一泊。幸運にも二千円分だけ給油でき、十三日夕、知人宅にたどり着いた。原発の危機的な状況をニュースで知り、避難が長くなることを覚悟した。
翌四月、線量計を持って一時帰宅した。国の長期目標が毎時〇・二三マイクロシーベルトなのに対し、家の中で〇・四マイクロシーベルト、近くの杉林では五マイクロシーベルト。放射能汚染は、丹精込めてきた田畑や周囲の里山に確実に及んでいた。
あれから、八年。金沢市郊外に民家と畑を借り、小規模ながら農業を再開した。年に三回ほどは都路に帰り、家や田畑を荒らさないよう手を入れてきた。
「都路での生活は夢のようだった。自然と一体の暮らし、寒さに耐えて春を迎えた感動は忘れられない。土はよく肥え、作物も格別。事故前と同じ気持ちでいられるのなら、帰りたい」
元の暮らしへの愛情が募る。避難後、本紙「平和の俳句」に、穏やかな生活の尊さを詠んだ。
千枚の青田に千の平和あり
自宅周辺の放射線量は半分以下に減った。それでも、帰る決断ができない。
「(放射能汚染で)キノコも山菜もだめ。線量がどうとか、そんなことを考えながらの暮らしは楽しくない。集落の人たちと元の付き合いができるかどうか、自信もない。まさに、国富の喪失だ」 (山川剛史)
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史上最悪の原発事故からまもなく八年。避難を強いられた人たちの暮らしぶりを示すデータとともに、福島の今を追う。
◆移住1万5000件に迫る
避難した住民が、避難先などで住宅や土地を購入すると、特例で不動産取得税を軽減される。本紙は主な避難先の12都道県に特例の適用件数を問い合わせ、事実上の移住の件数を調べてきた。毎年2000~3000件ペースで増加し、2018年末時点では1万5000件近くに達した。
一方、避難指示が解除された自治体で暮らす人は依然少ない。19年1月1日時点で、放射能の汚染度が比較的低い楢葉町では、原発作業員らの転入も含めた居住者数が住民登録者の半数、浪江町や富岡町では1割に満たない。解除が早かった田村市都路町では、9割近くまで回復した。