福島第二原発に2月上旬取材に入った東京新聞の記者がその様子を報じました。
第二原発は第一と違い、外部電源が1回線だけ残ったため、原子炉の冷却が出来て震災4日後に冷温停止しました。以後8年間その状態を維持して現在に至っています。
先般ようやく東電のトップが第二原発を廃炉の方向で検討していることを明らかにしましたが、まだ決定には至っていません。 未練があってなかなか決断が出来ないものと思われます。
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福島第二原発と中間貯蔵施設の今
こちら原発取材班 東京新聞 2019年2月20日
2011年3月11日に被災しながらもメルトダウン(炉心溶融)を免れた東京電力福島第二原発に2月上旬、記者が入った。廃炉の決定を待つ第二原発は、今どうなっているのか。放射能で汚染された福島県大熊町と双葉町で建設が進む中間貯蔵施設と、周辺の現状を合わせて報告する。 (福島第二原発の地上写真は代表撮影)
残る爪痕
東京電力福島第一原発から南に12キロ、福島県富岡町と楢葉町にまたがってもう一つの原発がある。福島第二原発だ。事故収束が続く第一と同様、地震と津波で被災した。2月6日、日本記者クラブ取材団で構内を回った。(神谷円香)
第二原発は東日本大震災時、全4基が稼働していたが自動停止した。第一と違い、1回線だけ残った外部電源で原子炉内の核燃料を冷やし続け、震災4日後に冷温停止した。以後8年間、その状態を維持している。
被災の爪痕は海側の施設に残る。1号機の海水熱交換器建屋は床から2.5㍍も浸水。電源盤や変圧器には砂がこびり付いたままだ。原子炉にあった核燃料は建屋上部の使用済み核燃料プールに移され、冷却が続く。機器類はカバーで覆われ、モーター音もなく静まりかえっていた。
廃炉表明まで7年超
小早川智明社長が第二原発の廃炉を表明したのは、震災から7年以上が過ぎた昨年6月だった。福島県の再三の要請に応じてこなかった理由を、吉田薫副所長は「第一原発の廃炉を着実に進めるのが第一。支障が無いようこのタイミングになった。トータルとして福島復興にどうしたらよいか考えた結果」と説明した。
東電が昨年11月に富岡町に開館した「廃炉資料館」にも入った。西洋の家のような外観だ。震災で壊れた建物や草の生えた空き地が点在する周りの雰囲気から異様に浮いている。
第二原発のPR施設「エネルギー館」の内装を変え、事故のあらましや廃炉の状況を伝える。映像技術を駆使した展示や模型、事故対応した社員のインタビュー動画などはある。
賠償・訴訟には触れず
だが、被災者への賠償についてや、全国で起きている被災者による集団訴訟の説明は一切ない。
旧エネルギー館は1988年、原子力の生みの親といえるアインシュタイン、エジソン、キュリー夫人の3人の生家をイメージして造ったという。資金の少しでも外観の変更に使えなかったのか。テーマパークを思わせる建物で、なぜ「反省と教訓」が伝わるのか。
似たような施設を環境省が1月31日、大熊町の国道6号沿いに開設した。福島県内の除染で出た土や廃棄物を集める中間貯蔵施設のPR施設「中間貯蔵工事情報センター」。緑が基調の展示で爽やかなイメージを演出する。施設に埋めた土は2045年までに掘り返して、最終処分場に移す計画。しかし、受け入れ先は本当に決まるのだろうか。大きな疑問が頭から離れない。
よどみない口調で質問をはぐらかす東電や国の担当者とは違い、大熊町復興事業課の志賀秀陽課長の言葉には人間味を感じた。
「『復興五輪』と言われてもピンとこない。JR常磐線の全線開通も、20年に合わせて計画しなくても」
自宅は中間貯蔵施設エリア、つまり帰還困難区域にあるので戻れない。町の西側の一部は今年5月にも避難指示解除が見込まれ、町の再生に力を注ぐ。会津若松やいわき、郡山市に散らばっていた役場機能は、3月に完成する新庁舎に集約される。
「職員が一つ屋根の下で働けるのが感動」と、志賀さんは笑った。東京での当たり前を、ようやく取り戻そうとしている。