東京新聞は<ふくしまの10年>シリーズを連載しています。
そのうちの「雪が落とした災い」の項は、原子炉格納容器を保護するための「エアーパージ(排気)」と冬季の「降雪」が重なって起きた飯館村の放射能汚染の様子を10年前に立ち戻ってリアルタイム風に伝えています。
(1)~(4)を紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(1)放射能、まさかここには
東京新聞 2020年7月28日
二〇一一年の東日本大震災では、岩だらけで地盤がしっかりしているとされる福島県飯舘村でも震度6弱の揺れに襲われた。
村内の道約七十カ所で路肩の陥没や土砂崩れが起きたほか、民家ばかりか役場の屋根も損傷した。電気、水道、電話も一時途絶えた。
村南部の小宮地区にあるIT企業の農業研修所「いいたてふぁーむ」では、二百キロもあるまきストーブがずれて煙突が外れ、屋根瓦が何十枚もずれた。同社を退職後、研修所の管理人となった伊藤延由(のぶよし)さん(76)は慌ててホームセンターに行き、ブルーシートと土のうを調達。高所作業は苦手だったが、シートを広げ、両端に土のうを結び付けて重しとする応急修理をした。
震災三日目の三月十三日夕には電気が復旧したものの、余震は続く。周辺では崖崩れも起きた。
風が強い地区。やはり屋根のシートが飛ばされるのではと心配になった。研修所のリフォームを担当した職人に来てもらって瓦のずれを直し、棟の部分はシートをかぶせて土のうを四十個置いてもらった。「これでひと安心」と胸をなで下ろした。
東京電力福島第一原発で事故が起きたことは知ってはいたが、原発から研修所までは直線距離で三十二キロ。
「これだけ離れているんだから、まさか(放射能は)飛んでこないだろう」
ニュースを聞いても、伊藤さんは「どこか人ごとのように感じていた」という。
(山川剛史が担当します)
<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(2)長い避難生活 予想せず
東京新聞 2020年7月29日
「おー、随分と積もったなあ」。二〇一一年三月十六日朝、飯舘村小宮地区の農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人、伊藤延由(のぶよし)さん(76)は一面の銀世界に思わずシャッターを切った。
東京電力福島第一原発では1、3号機で水素爆発が起きるなど事態が深刻化しているのは知っていた。雪を見ても「放射能が含まれていないといいが」くらいにしか思っていなかった。
そのことよりも、村には東隣の南相馬市などから大勢の人が避難してきている。車のガソリンは残り少なくなってきたが、避難所に研修所の毛布を届けるなどやるべきことはたくさんあった。路面には十センチほど雪が積もり、除雪を待つ必要があった。何時ごろから車を走らせられるかを気にしていた。昼間は吹雪となったが、その中を物資を積んで走り回った。
伊藤さんは新潟県の出身。母親の介護を終え、勤めていたIT企業の社長に誘われ、同社が飯舘村に開設した農業研修所の管理人として移住した。新潟県では、一九八〇年代まで旧ソ連などによる核実験で放射性物質が降ることがあり、「線量計で計測して一喜一憂していた」という。
そんな経験をもつ伊藤さんでさえ、前夜から降り積もった雪の中に、福島第一原発から放出された膨大な放射性物質が含まれているとは思わなかった。楽しくて仕方なかった研修所の仕事を奪われ、長い避難生活を強いられるとは予想だにしていなかった。
<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(3)放射線量が一気に上昇
東京新聞 2020年7月30日
原発事故発生から三日後の二〇一一年三月十四日、村役場の隣にある高齢者施設の一角に村に初めての放射線監視装置(モニタリングポスト)が設置された。
今の装置なら、測定データは自動的に行政に送られ、パソコンやスマホでどこからでも状況を知ることができる。しかし、初の装置はモニタリングポストと呼ぶには程遠かった。装置の監視を担当した役場の職員は「朝も夜も二十四時間体制で、一時間ごとに交代で装置の数値を読み取りに行き、県災害対策本部に衛星電話で報告していた」と振り返った。
設置された当初、放射線量は毎時〇・〇九マイクロシーベルトと、事故前より少し高い程度だった。しかし十五日正午ごろから値が急上昇。午後六時二十分には四四・七マイクロシーベルトと極めて高い値を記録した。一日で一般人の年間被ばく線量限度(一ミリシーベルト)を突破する値だ。
東京電力福島第一原発では十四日深夜、2号機が原子炉格納容器の破裂の可能性もある危機的な状態に陥った。十五日早朝、格納容器下部で破裂音がした後、大量の高濃度汚染蒸気が建屋外に漏れ始めていた。
その汚染蒸気は風に乗って北西に向かい、日中は雨、夜からは雪となった飯舘村の地に落ちた。
当初は短期で放射能が減る放射性物質も多かったため、モニタリングポストの値は徐々に小さくなっていった。だが、村は長く放射能汚染に苦しめられることになった。
<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(4)車内で線量計振り切れ
東京新聞 2020年7月31日
東京電力福島第一原発による放射能汚染は、飯舘村のどこにどれくらい広がっているのか−。二〇一一年三月二十八日夕、それを調べるため京大原子炉実験所(現・複合原子力科学研究所)の今中哲二助教(69)=当時=を代表とする調査団が村に到着した。
今中さんら五人は早速、村が用意したワンボックスカーに乗り込み、一時間ほど村内を走って下調べをした。
「正直なところびっくりした。汚染のひどい場所があると分かっていたが、どこを走っても高線量。局地的にホットスポットがあるのかと思っていたが、まるで違った」。今中さんはこう振り返った。
翌日午前は北部の九十二地点、午後は南部の三十八地点で放射線量を測定した。北部は毎時一・五〜七・七マイクロシーベルト。事故前は〇・〇五マイクロシーベルト前後だから、非常に高い線量だ。午後、浪江町の山側に近い村南部の蕨平や比曽地区に入ると、線量は急上昇した。一〇マイクロシーベルトを超える状況になってきた。
そして、現在も許可なく入れない帰還困難区域となっている長泥地区に入ると、車内でも線量計(最大二〇マイクロシーベルト)が振り切れた。
「これを持ってきてよかった。専門家なのに測れないなんて恥ずかしいから」。今中さんは、そう思いつつ高線量域の得意な別の線量計を取り出して車を降りた。
「長泥字曲田(まがた)」の道路標識近くの畑で測ると調査で最大値の三〇マイクロシーベルトだった。九年以上たった現在も三・六マイクロシーベルトある。