2020年8月8日土曜日

08- <ふくしまの10年・雪が落とした災い>(8)~(10)

 東京新聞の連載記事<ふくしまの10年>(5)~(7)の続きです。
 今回で同シリーズは終了です。
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<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(8)
避難説明会 不安ばかり
東京新聞 2020年8月6日
 最悪レベルの原発事故からちょうど一カ月後の二〇一一年四月十一日、政府は飯舘村を「計画的避難区域」に指定し、一カ月ほどの間に全村避難させる方針を決めた
 政府決定を受け、村は十三〜十六日、村内六カ所で住民説明会を開いた。
 「私らと何の関係もない原発の事故が起き、運悪く私たちの村に放射能が少したまってしまった。何もちょうど事故の一カ月後でなくてもいいのに、計画的避難が発表されました」。菅野典雄村長はこうあいさつした。
 住民に配られた資料には、村に住み続ければ翌年三月までの一年間に、一般人の年間被ばく線量限度(一ミリシーベルト)の十〜六十一倍の被ばくをするとの推定値が記されていた。ただし、この程度の被ばく線量ならば「健康への影響はない」とも記されていた
 説明会は冷静な雰囲気で進んだものの、「大きな問題はない」と聞かされ、事故後一カ月も村で暮らしている住民の動揺は大きかった。
 「特に子どもたちへの対応が遅い。安全安心と聞かされてきたのになぜ避難なのか」
 「避難しろと言われても、飼育している牛たちをどうするんだ」
 「避難は何年続くのか。腰掛け的な避難は不安だ」
 さまざまな質問が出たが、菅野村長は「自分の責任で答えられれば楽ですが、残念ながら申し上げられない。できるだけ早く帰れるようあらゆる手段を尽くします」。こう答えるのがやっとだった。


<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(9)村内にまだ多くの子が
東京新聞 2020年8月7日
 二〇一一年四月二十一日、飯舘村の幼稚園や小中学校は隣接する川俣町の学校などを間借りして再開した。西へ十数キロ、山を下った場所にある川俣町だが、放射線量は飯舘村より格段に低い。村内を継続取材していた豊田直巳さん(64)は、ひとまず安心できる環境で子どもたちが学べることを喜んだ。だが、強い違和感もあった。
 一つは、翌日からは川俣町で再開されるのに、合同の入園、入学式が村内で行われたこと。
 「せっかく川俣で再開できることになったのに、どうしてわざわざ村内で…」。雪が残る会場で取材しながら、豊田さんは疑問に思った。
 もう一つは、五月に入っても村役場を発着するスクールバスが走っていたこと。
 この時点では、仮設住宅は未完成で、行政は一次避難先の確保に追われていた。子どものいる家庭では、多くが三月から自力で避難していた。だが家業や勤め先などの理由で、子どもと村内に残っている家庭も少なからずあった。
 何人の子どもが残っていたのか、村役場に記録はないというが、村が運行するバスの半数に当たる六台が、村から川俣町に子どもたちを送っていた。残る子どもが減るにつれてバスも減ったが、運行は六月いっぱい続いた
 バスで村役場前に帰ってきた子どもたちを写真に収めつつ、豊田さんは「既に学校は避難したのに、まだ子どもがこんなにも残っているのか」と驚かされた。


<ふくしまの10年・雪が落とした災い>(10)仮設暮らし、6年耐えた
東京新聞 2020年8月8日
 飯舘村の全村避難は、東京電力福島第一原発事故から二カ月が過ぎた二〇一一年五月十五日から始まった。六月十四日、専業農家の菅野隆幸さん(76)、益枝さん(73)夫妻が村を離れる時がきた。
 益枝さんは、一緒に残っていた母親フサエさん(帰村後に死去)と、大広間にある仏壇に線香を上げた。
 「留守にしちゃうけど、うちを守っていてね」
 こう言いながら手を合わせると涙があふれ、何度ぬぐっても止まらなかった。
 住み慣れた家や丹精してきた畑から引き離される。息子世帯も含め八人の大所帯で暮らしていたのに離れ離れに。いつ終わるか分からない避難生活の始まりに心が沈んだ。
 避難する先は四十キロほど西にあるふくしま自治研修センター(福島市)。快適な施設だったが、「やることがないのがつらかった。センターの草刈りとかやらせてもらったよ」(隆幸さん)。
 八月には同市内に完成した仮設住宅に移ったが、悩みは「暇。楽をすると、野良仕事をする気をなくす」こと。汚染された村の畑は雑草が伸び放題で営農再開はあきらめ、大規模太陽光発電所(メガソーラー)用地として貸した
 心の支えとなったのは、同市内と川俣町に畑を借り営農再開にこぎ着けたこと。気力を取り戻し、一七年三月末まで約六年間の仮設暮らしに耐えた。だが、村に帰った今も「目の前に自分の畑あんのに、お金だして畑借りてんだ」という状況は続いている。=おわり

        (山川剛史が担当しました)