2021年2月23日火曜日

原発事故「国にも責任」 高裁判決の重さ自覚を

 19日、千葉県に避難した住民らが損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決東京高裁が東電だけに賠償を命じた一審の千葉地裁判決を変更して、国にも責任があるとする逆転判決を下したことを評価する社説を二つ紹介します。

     ⇒ 2月20日) 国の責任認める 福島発事故の千葉避難者訴訟 東京高裁
 東電と国に損害賠償を求める訴訟30件のうち高裁判決は3件目で、国の責任を認めたの昨年9月の仙台高裁に続き2件目になります。
 中國新聞は、02年に公表された政府の地震調査研究推進本部による地震予測「長期評価」に基づき、巨大津波への対策を講じていれば事故は防げたかどうかだったとし、一審の前橋地裁判決が、政府機関より一学会の知見を重く見る判断をしたのはバランスを欠いていると指摘し、金のかかる津波対策を避けたがる東電と、規制する政府機関との長年の「なれ合い」厳しくチェックしてこそ、司法の役割が果たせるとしました。
 東京新聞は、1992年の伊方原発をめぐる最高裁判例が、原発事故は住民の生命・身体、周辺環境に深刻な災害をもたらすから「万が一にも起こらないように」と十分な安全審査を求めた立場に沿って、「万が一の災害」に備えるのが原子力政策を進める国の当然の責務だったはずであると指摘しました。
 このところの司法は、原告と国の主張が対立するとひたすら国(規制委)の見解が正しいとするばかりで、この視点が希薄になっているように思われます。
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社説 原発事故「国にも責任」 高裁判決の重さ自覚を
                             中國新聞 2021/2/22
 原子力災害では国内最悪となった東京電力福島第1原発事故から来月で10年になる。高裁で再び、国にも事故の法的責任があるとの判決が出た。
 国は、その重さを受け止め、安全確保のため果たすべき役割と、深刻な事故を防げなかった責任を改めて自覚すべきだ。
 事故で福島県から千葉県に避難した住民らが損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決である。東京高裁は、東電だけに賠償を命じた一審の千葉地裁判決を変更して、国の逆転敗訴とした。
 東電と国に賠償を求める同様の集団訴訟は全国で30件に上る。高裁判決は3件目で、国の責任を認めたのは昨年9月の仙台高裁に続き2件目である。
 今回も最大の争点は、2002年に公表された政府の地震調査研究推進本部による地震予測「長期評価」に基づき、巨大津波への対策を講じていれば事故は防げたかどうか、だった。
 一審は、巨大津波の危険性は予見できたと認めたものの、仮に対策を講じたとしても間に合わないか、事故を回避できなかった可能性があると判断。国の責任は認めなかった。分かりにくいと言わざるを得ない。
 それに対し高裁は、まず長期評価は科学的信頼性があることを認めた。その上で、巨大津波は予見でき、東電が防潮堤の設置やタービン建屋に水が入らないような対策を取っていれば、津波の影響は相当軽減でき、事故の原因となった全電源喪失には陥らなかったと判断した。
 国に対しては、長期評価を考慮しなかったことを「著しく合理性を欠く」と指摘。東電に規制権限を行使しなかったことと事故との因果関係を認め、「違法」とした。説得力があり、同様の訴訟での一部判決への不信感を拭うことができそうだ。
 というのも、分かりにくい判決が他にもあるからだ。群馬県などに避難した住民らの控訴審で、東京高裁が先月出した判決もその一つ。国と東電に賠償を命じた一審の前橋地裁判決を取り消し、国の責任を否定した。
 その理由として、長期評価の内容が、同じ年に土木学会が公表した知見と合わず、巨大津波は予見できたとはいえないことなどを挙げた。政府機関より一学会の知見を重く見る判断はバランスを欠いていないか
 しかも土木学会の知見については、福島沖で津波が起きるかどうか検討せずにまとめたという証言が公判で出た。信頼性を疑わせる内容にもかかわらず、判決には反映されていない。
 事故の背景への理解が乏しすぎる。国会の設けた事故調査委員会は「明らかに人災」と断じた。金のかかる津波対策を避けたがる東電と、規制する政府機関との長年の「なれ合い」で、事故対策がおろそかになったというわけだ。国と東電との緊張感のなさを厳しくチェックしてこそ、司法の役割が果たせるのではないのか。再発を防ぐことにもつながるはずだ。
 同様の訴訟の多くはまだ地裁で審理中だ。14件出た一審判決は、国の責任を認めるかどうか判断は二分されている。最高裁まで争うとなると、相当時間がかかる。避難者には耐え難いだろう。国はこれ以上訴訟を長引かせず、事故を防げなかった責任を潔く認めるべきだ。全ての原発被災者への早急な支援にこそ力を尽くす必要がある。


<社説> 福島原発判決 「万が一」をかみしめて
                          東京新聞 2021年2月22日
 「国に法的責任はある」−原発事故で千葉県に避難した人々が起こした訴訟での東京高裁の判断だ。規制権限の不行使を厳しく指弾した。原発政策では「万が一」にも備えるのが大震災の教訓だ。
 国の賠償責任を認めるかどうか ー、原発事故をめぐる各地の訴訟では、この点で地裁判断は真っ二つに割れた。高裁レベルでも、昨年九月の仙台高裁は「国に責任あり」だったのに、群馬県に逃れた人の群馬訴訟で先月の東京高裁は「国に責任なし」だった。
 司法の姿勢が、今後の国の原子力行政に厳しい対応を迫るかどうか影響を与えうるだけに、今回の東京高裁の判決は意義がある。国の法的責任を認めるうえでハードルとなっていたのが、津波襲来の予見可能性である。
 政府の地震調査研究推進本部は二〇〇二年に三陸沖から房総沖にかけての「長期評価」を公表。福島県沖でもマグニチュード8・2前後の地震が起きる可能性があるとした。今回の千葉訴訟では、地裁段階で当時の経済産業省原子力安全・保安院と東京電力との間で交わされた電子メールが明らかにされた。
 「福島沖で津波地震が起きたときのシミュレーションをすべきだ」と保安院側が求めたが、東電は反発。「四十分間くらい抵抗した」との生々しい記述があった。残念ながら、このときはシミュレーションは見送られてしまった。
 〇八年には東電側が「長期評価」を基に最大一五・七メートルの津波の可能性を試算したものの、対策は土木学会に検討を依頼し、先送りしただけだった。
 この経緯を考えれば、「長期評価」が公表されてから、国も東電も津波襲来の危険性を認識していたと考えるのが自然であろう。
 今回の判決も、それを前提に規制権限を持つ国が東電に津波対策などを命じなかったことを「著しく合理性を欠いていた」と断じた。全電源喪失を防ぐ措置を想定しなかったことも非難した。
 思い起こされるのが、一九九二年の伊方原発(愛媛)をめぐる最高裁判例だ。原発事故は住民の生命・身体、周辺環境に深刻な災害をもたらすから「万が一にも起こらないように」と十分な安全審査を求めたことだ。
 大震災と原発事故から十年。この判例の趣旨に照らせば、「長期評価」を危険信号と受け止め、「万が一の災害」に備えるのが原子力政策を進める国の当然の責務だったはずである。