全町避難の福島県大熊町で、大川原、中屋敷両地区の避難指示が10日、解除されます。
しかし町民の思いは一様でありません。「戻る」と決断した人も、「戻らない」あるいは「戻れない」人もそれぞれ胸中は複雑です。決行された後もずっと後を引くことでしょう。
河北新報が3人に思いを聞きました。
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<9年目の決断 福島・大熊>
(上)「戻る」 森山真澄さん(44)/迷える人の希望に
河北新報 2019年4月7日
東京電力福島第1原発事故で全町避難する福島県大熊町で、大川原、中屋敷両地区の避難指示が10日、解除される。町が復興拠点と位置付ける大川原では役場新庁舎、災害公営住宅といった帰還の準備が整いつつあるが、町民の胸中は一様ではない。「戻る」「戻らない」「戻れない」。9年目の決断に耳を傾けた。(会津若松支局・玉應雅史)
長かった避難生活に終止符を打つ。会津若松市にある災害公営住宅古川町団地で暮らしてきた森山真澄さん(44)は、少しずつ引っ越しの準備に取り掛かる。
2013年に結婚し、翌14年から古川町団地で同居を始めた夫の会社員智光さん(41)と共に、6月1日入居開始の大川原の災害公営住宅(50戸)に入ると決めた。会津若松の別の災害住宅で1人で暮らす母の三川千恵子さん(77)も、大川原の4軒隣に入居することになった。家族3人、大熊での暮らしが始まる。
<私の古里>
森山さんは神奈川県生まれ。両親が離婚し、小学3年の時に母と大熊に来た。母子家庭で、苦労は絶えなかった。帰還困難区域になった熊地区の町営住宅や地域の人たちとやがて親しくなり、地域の優しさに包まれて育った。
「私の古里は大熊。母も死ぬなら大熊で、と心に決めていた」
原発事故と8年余の避難生活は、その固い決意を揺るがした。原発が水素爆発を起こしたと避難中のバスの中で知り、「もう駄目かも」と思った。体育館や旅館、会津若松の仮設住宅を転々として気持ちが沈み、鬱(うつ)状態にも陥った。
古川町団地で落ち着くことができたころ、町の一部で一時帰宅が可能になり、初めて希望が湧いた。
「大川原を拠点に帰還を目指す町の方針を聞き、初めて安心できた。やっとできた私の古里。帰りたい」
<覚悟の上>
希望をてこに気持ちを切り替えた。振り返れば、避難生活は学んだことも多かった。人に親切にしてもらい、会話の大切さを知る。
高齢者が多い古川町団地では、若さを買われて自治会長を務めた。話すことで入居者の不安解消につながった経験は財産。大熊でも生かす。
大熊では、率先して地域づくりに携わろうと考えている。近所の人と一緒に花を植えてみたい。お茶飲みも楽しみだ。「住民同士のコミュニティーが最も大事だと思う」
買い物、病院、仕事探し-。いずれも不便は覚悟の上の帰還でもある。「私たちが大川原で前向きに暮らす姿が、帰還を迷っている人たちの希望になればうれしい」。目指すは「究極のおせっかいおばちゃん」だ。
<9年目の決断 福島・大熊>
(中)「戻らない」山本三起子さん(68)/国策再び町民翻弄
河北新報 2019年4月8日
大熊で生まれ育った。夫を婿養子に迎えて、家と墓を守ってきた。そんな人生が一変した。
2011年3月の東京電力福島第1原発事故。町民対応に追われ、帰宅できない町役場勤務の娘夫婦に代わり、幼い孫2人を連れて夫と一緒に避難した。田村市の体育館で孫は夜泣きがやまず、おむつのお尻は真っ赤だった。
「何とかしないと」。会津若松市の知人宅を経て会津美里町、再び会津若松市と引っ越しを繰り返し、借家暮らしで落ち着かない日々が続いた。
<通院続く>
異変が現れたのはその頃だ。味を感じない、音が聞こえない、目も見えない。パニックに陥った。夏には歩くこともままならず、車いすが必要になった。適応障害と診断された。
「大熊にすぐ帰れると思っていた。それが、いつ帰れるか分からない状況になって。原発事故後、ずっと眠れなかった」
だいぶ回復したが、今なお通院は続く。大熊以外で暮らしたことがない生粋の大熊人。環境の激変が心と体をむしばんだ。
自宅があった町中心部の大野地区は帰還困難区域になった。墓参の際に立ち寄る自宅は少しも変わっていない。周囲の家々と異なりイノシシ被害もなく、すぐに帰れる気がする。
「でも、元と同じ町には戻らないよね」。町の現実を直視し、気持ちを切り替えようと会津若松市内に2年前、自宅を再建した。
<揺れる心>
国は、除染とインフラ整備を一体的に行って帰還困難区域に居住エリアをつくる「特定復興再生拠点区域」の新制度を打ち出した。大野地区が含まれることになったのは自宅再建後。「戻らない」と決めた直後、「え? 戻れるの?」。また、心がぐらついた。
「戻る、戻らないの気持ちは行ったり来たり。今も胸がざわざわする。モノの復興は進んでも、人の心の復興はまだまだだ」
出稼ぎが当然の寒村は高度経済成長期、原発立地とともに潤った。安全安心と信じた原発が未曽有の事故を起こし、全てを失った。
国策に翻弄(ほんろう)された町を追われた町民もまた、先が読めない国の帰還施策に振り回されるかのようだ。
「死んだら大熊の墓に入ろう」。そう考えるようになり、少し楽になった。
<9年目の決断 福島・大熊>
(下)「戻れない」/石田忠秋さん(86)/思案 時間との闘い
河北新報 2019年4月9日
我慢や苦労が報われる日は来るのだろうか。
東京電力福島第1原発事故に伴う福島県大熊町大川原、中屋敷両地区の避難指示解除に向けて会津若松市で先月あった町民説明会。2020年4月に大川原の福祉施設が開所予定との説明に、同市に避難する石田忠秋さん(86)は、がっかりした。
<妻を介護>
介護が必要な妻テツ子さん(79)はデイサービス施設がなければ町に戻れない。しかし、開所するのはグループホームだった。
2年前に避難指示が先行解除された隣の富岡町にはあるが、「町民優先」とも耳にした。大川原に診療所が開設されるのは2年後。頼りの県立大野病院は帰還困難区域にあり、再開のめどは立っていない。
原発事故前、石田さんはテツ子さんと大川原で暮らしていた。水頭症を患うテツ子さんは寝たきりで、石田さんが介護してきた。「病人を抱えていない人がうらやましい」。そう感じるほど、車いすのテツ子さんとの避難は大変だった。
会津若松市の仮設住宅にいた5年前、テツ子さんは市内の病院で水頭症の手術を受けた。手術は成功。要介護度は5から4に改善した。術後、病院近くの建売住宅を購入し、ようやく落ち着くことができた。
<家は解体>
会津の暮らしは便利だ。施設も多く安心だが、ついのすみかとは考えていない。「家を処分してでも大熊に帰りたい。でも、ばあちゃん(テツ子さん)を連れて帰る環境にはないな」。今回の帰還は見送った。
介護のほか掃除、洗濯、炊事の一切を担う。70歳まで山仕事をしたから体力には自信がある。とはいえ、車を運転できるうちに帰還を判断したい。浜通りや県外にいる子どもたちのそばで暮らすのが良いのか。さまざまな選択肢を模索する。時間との闘いだ。
週に5日、テツ子さんがデイサービスに出掛ける日中、車で大熊へ行くこともある。自宅は東日本大震災で大規模半壊となって解体したが、「足が無意識に向く」。変わる町並みを眺めて会津に戻る。意味はない。古里はそういうものだと思っている。
町民説明会終了後、渡辺利綱町長から申し訳なさそうに声を掛けられた。
「忠秋さん、あと2、3年だな。頑張っぺな」。大熊の自宅が近所で、事情を知る町長の励ましはうれしかった。だが、3年待てるかどうか。答えは出ない。