2020年10月26日月曜日

「フクシマ50」の中にもヤクザはいた 第2回目 (鈴木智彦氏)

  「「フクシマ50」の中にもヤクザはいた」の後編です。

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「死んでもいい人間を用意してくれ」 深夜2時に福島1Fに向かった、“20人の決死隊”
                 鈴木智彦 文春オンライン 2020年10月25日
                               鈴木 智彦/文春文庫
「フクシマ50」の中にもヤクザはいた 原発事故の“英雄たち”は月給100万円 から続く
 30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏は、あるとき原発と暴力団には接点があることを知る。そして2011年3月11日、東日本大震災が起こった——。鈴木氏が福島第一原発(1F)に潜入したレポート、『 ヤクザと原発 福島第一潜入記 』(文春文庫)より、一部を転載する。(全2回の回目/ 前編 に続く)
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20人の決死隊
 話を佐藤のケースに戻す。
 冷却システムがダウンし1Fが危機的状況に陥ると、佐藤の携帯に東京電力関係者から「緊急対応の作業があっから行けるかな?」と、直接電話がかかってきた。
 前述した通り、彼の会社のボスは「死んでもいい人間を用意してくれ」という要請を受け、社員の派遣をためらっていた。
「うちらが行きますよ。誰も行かないのはまずいでしょ」
 ここでの撤退は後々の営業戦略に大きな影響を与えるだろう、と佐藤は踏んでいた。

土壇場のピンチで逃げ出さずに踏ん張れば、東電は作業員を派遣してくれた会社に恩義を感じるはずだ。他の会社を含め、佐藤の現場から合計20人あまりが1Fに向かうことになった。マイクロバスがJヴィレッジに到着したのは午前2時だった。
※写真はイメージ ©️iStock.com
 電気が不通のため、あたり一面は真っ暗で、建物も静まりかえっている。
「様子……真っ暗でなにも見えないっすもん。ちょっと離れた場所にもう一台バスが駐まってて、東芝の放管の人らがいて、そこでクイクセル(バッジ)の配布とか、そういうのやってるだけです。東電の社員の人たち……見てないっすね。あとは放水車が駐まってて。ほんと暗くって周りの状況が分かんなかった。バスの車内の照明だけを頼りにタイベック着て、全面マスク付けて、朝5時までJヴィレッジでマイクロバスの中にいましたね。1Fには6時くらいに着きました。どう思ったか? ああ、もう1Fは終わりだなぁって。あれ見たら誰だってそう思います」
 免震重要棟は、原子炉建屋のある海側のガラスがほとんど爆風によって吹き飛ばされており、瓦礫や割れた窓ガラスの破片が一面に散乱していた。作業を決める詳細なミーティングは、東電関連会社、メーカーごと、それぞれ担当する作業に分かれて行われた。水素爆発を起こした1号機や3号機は、散水によって冷却するしか方法がない。が、配管が生きていれば、そこからパイプを分岐させ、海水を汲み上げるポンプに接合すればいい。
正確な線量なんて分からない
「食事はクラッカー2袋にサンマの缶詰1個、あとは水のペットボトルが1本でました。荷物はバスの中に置いて来ちゃったし、前の日ほとんど睡眠とってないんで、グレーのマットが敷かれた広い会議室で寝てましたよ。ほとんど情報はなかったです。細かいこと知ったって関係ないですから。自衛隊のヘリコプターが空から放水したのは知ってました。『ありがたいけど、あれじゃあ無理だったよな』って、みんなが話してたのが聞こえたんで」
 現場作業は午後1時から開始された。飲まず食わず、合計8時間あまりの連続作業で休憩時間もない。誰一人として話をする者はいなかった。30代、40代、中には50代の作業員もいたが、全員が黙々と作業を続けた。
「放管はいましたけど、装備の話しかしてなかった。言われたのは『ちゃんとマスクをしろ』くらいです。事前にさっと(放射線量を)測りに行ってるだろうけど、正確な線量なんて分かんなかったと思います。自分たち、代表で2、3人だけ個人線量計持ったんですけど、それぞればらばらに仕事しているから、どこが線量高いのかなんて分からないじゃないですか。
 全面(マスク)は今まで何回か付けたことありますけど、その装備で長時間の作業をするのはみんな初めてでした。倒れた人はいなかったです。脳内にアドレナリンとか、そんな物質が出てたかもしれないです。夜の8時くらいまでぶっ続けで、水もトイレもなかった。トイレとかは我慢できなかったら免震棟に戻って、って感じだったですけど……。そうだ、俺、うちの班で最初にトイレ行ったんです。ウンコ我慢できなくて。
 免震棟に戻ったら……トイレはひどかったですね。出入り口の近くにあって、カーテンで仕切られ、下にタンクがある。近づくとカーテン開ける前から、ウッて吐きそうになった。座ろうと思ったら便器から5センチもないところに、みんなのウンコがもりもり溜まってました」
 近くの旅館に戻ったときは、誰もが心底疲れ切っていたという。食事をとり、風呂に浸かり、そのまま布団に倒れ込んだ。この一日で、佐藤の班は作業のすべてを終了した。それぞれどれだけの放射線を浴びたのかはっきりしない。想像以上の高線量を浴びた可能性があった。佐藤はいったん1Fを離れた。
 屈託のない笑顔で当時の様子を話す佐藤に、精子の検査と造血幹細胞の採取をすすめた。いまだ彼は病院に行こうとしない。

作業員は情報弱者
 佐藤のように高額な日当をもらっている作業員はごく少数である。同時期、日立系列は作業員に直接100万円の危険手当を支給したという話もあったが、ウラは取れていない。いわき平のハローワークで調べた通り、1Fで働く作業員の多くは、死と隣り合わせの過酷な労働の割に低賃金である。会社の体質や作業内容、それぞれのスキルにもよるが、もともと1Fで働いていた作業員たちでも日当2万〜4万円あたりが相場で、平均、約12時間拘束される。毎日現場に出れば、月給120万円になる計算だが、若くてスタミナのある熟練工であっても月に20日が限度という。
「担当部署によって違うし、天気やその日の作業内容にもよるけど、どこも毎日6時間から8時間は作業しているだろう。酷暑の中、防護服に防塵マスクだから、ただ座っているだけでも疲労する。狭い場所では不自然なポーズのまま長時間作業しなきゃならないので体がもたない」(30代の作業員)
 にもかかわらず、会社によっては交代要員がいないため休日がとれない。5月14日、不二代建設で働く60歳の作業員が熱中症によって死亡した後も労働環境の抜本的な改革は行われておらず、逆に労働時間は増えている。危険、汚い、休日もない3K職場の上、なんの保証もなく、あるのはただ将来の健康不安のみだ。私のような不純な動機ならともかく、なぜボイコットしないのか理解に苦しむ。
「社長が好きだからですよ。恩もあるし。うちの社長、かっこいいんです。憧れなんです」
 ようやく打ち解けた佐藤は、いまだ現場で働き続ける理由をこう説明する。両者の精神的絆を噓とは言わないが、それだけが理由とも思えない。
 いわき湯本近辺を宿にしている作業員に密着しているうち、分かってきたことがある。作業員の多くは放射能に関する専門的な知識を持っておらず、毎日のニュースすら知ることが出来ない情報弱者という事実である。
「旅館のフロントに新聞は置いてあるけど、毎日疲れちゃって読む気がしない。テレビのニュースを録画しておきたいけど、部屋にビデオなんてない。インターネット? 携帯ならあるけど、パソコンなんて持ってきても無意味だ。ビジネスホテルならともかく温泉旅館にLANケーブルなんてない。元々みんな肉体労働してんだし、無線で繫ぐほどのマニアはいない」(協力企業の現場監督)
 実際、2011年7月初め、4号機の使用済み燃料プールの温度が上昇し、作業員に避難命令が出される直前だったのに、彼らの多くは深刻な事態だったと認識していない。
「他の部署がなにやってんのか……1号機担当なら2号機や3号機、4号機がどうなってるのかさっぱりわからないし、知ったところでどうにもならない。あんまり考えすぎると作業が進まないからな。工程表通りに作業が進むわけがないけど、最小限の遅れで済ませたいと、誰もが思ってる。晩発性の癌? そんなこと考えたってしかたない。なるようにしかなんねぇよ」(いわき湯本を宿にしている協力会社社員)
 自分がどれほど危険な作業をしているか漠然としか理解していない上、新たな情報を得ることもできず、慣れが恐怖心を鈍化させるのだろう。誰に強要されたわけでもなく、自分の意思で現場に入っているのだから、自業自得・自己責任と結論づけるのは簡単だ。が、現場の過酷さを考えれば、作業後、または休日を使い、情報を得るための努力をしろと強いるのは酷である。

任俠社長
 当時、火急の問題だった高濃度汚染水の処理が進まないのは、作業員にとっては幸いかもしれなかった。全体の作業は遅延するが、その分、状況を知り、将来を考える余裕が生まれるからだ。実際、現場作業の実質的な元請けには、新規の作業員を断っているところもある。
「汚染水の処理が進まないと不可能な作業ってのがある。いま以上に人を入れたってすることがないんで、待ってくれと断られた。電力の出した工程表に遅れが出るのは間違いないけど、少しでも近づけたいから熟練工しか必要ないんだろう。交代させるときは『こいつら仕事できんのか?』としつこく訊かれるわね。
 その他、プラントメーカーのエンジニアたちもまだ出番じゃないから、ずっとJヴィレッジで待つしかない。日立は日立、東芝は東芝と、グループになって待機してんだけど、みんな暇を持てあましてる。知り合いのあんちゃんは『やることないんでPSPのモンハン(モンスターハンター)をクリアしちゃいました』って苦笑いしてたよ」(5次請けの協力会社社長)
 作業員の被曝限度が厳守されている前提なら、こうした格差は必然的なものと割り切ることもできる。が、フクシマ50でさえ、当時、装着していたフィルムバッジの値は公表されておらず、本人たちにも知らされていないのだ。1Fが立て続けに水素爆発を起こした当時、多くの作業員がオンタイムで被曝数値が分かるデジタル線量計を持っていなかった。最低限、本人にはフィルムバッジの数値を通達すべきだ。そうしない限り、被曝限度を越えた作業員を働かせているのではないか……という疑念は消えない。
「あんたたち、命懸ける気あんのか?」
 多少の不満は口にしても、黙々と現場に出ていく作業員たち—。
 彼らをフォローしようと、各分野のエキスパートたちも動いている。とある町工場は、水分を吸収すると冷却作用を生む生地を使ってTシャツを作り、作業員に試作品を渡した。防護服に加え、それぞれの作業に必要な着衣を身につけるため気化熱が発生せず失敗、繊維メーカーはご立腹らしいが、怒りの矛先が間違っているとしかいえない。
 不甲斐ない政治家の中にも、作業員を支援しようと動いてくれる一派がおり、作業員の生の声を聞きたいとメールをもらっていた。谷口プロジェクトをきっかけに参加した『医療ガバナンス』というメーリングリストのシステムを理解せず、誤って個人情報を載せた私信を読者全員に送ってしまい、そこに書かれていたメールアドレスや電話番号を通じて、あちこちから連絡が来るようになっていたのだ。
 いわき市で私ら新入社員の顔見せを兼ねた歓迎会が行われた際、民主党参院議員の石橋通宏らが、偶然、いわき市を視察していたため、社長の許可をもらって同席してもらった。もちろん、同僚たちには「あの人たちは我々の味方だ」と説明してあった。まだ早い時間だったので酔いも浅く、それなりに有意義な話が聞けたように思う。
 ただ、うちの社長は体質が任俠である。口数は少なく「男なら行動で示せ」が信念だ。社員の交通事故やトラブル、家庭内不和の仲裁、借金の肩代わり、果ては不良たちとの喧嘩まで、なにかあればすぐに自分が矢面に立つ。客観的にみて、面倒見のよさは常軌を逸しており、少々病的である。
 もっともらしい正論を振りかざす政治家たちの話を打ち切り、社長はシンプルな物言いで核心に突っ込んだ。

「あんたたち、命懸ける気あんのか?」
「命を懸けるかどうかはともかく……」
 すべてが偽善というつもりはないが、政治家たちの本心は作業員たちの安全確保より、当時、総理大臣だった「菅降ろし」にあるように思えた。
 遠目でやりとりをみていたら、どうにもいたたまれず、二次会には誘わなかった。同席者から、「いいんですか? 行きたそうにしてましたよ」と忠告されたが、これ以上酒が回れば、あちこちで「自分の目で現場を見てみろ」と、すごまれるだろう。
 二次会の最後、カラオケを熱唱したマイクを使い、社長は社員にこう呼びかけた。
「俺たちで1Fを止め、次の世代に日本を渡そう」
 熱気は不思議と伝染する。正直、不埒な作業員である私にも、社長や同僚と同じ気持ちが芽生えていた。わずか1パーセントにも満たないが、正義などこの程度で十分だ。

ヤクザ発原発経由リビア行き
 メーリングリストを通じ、海外メディアからのコンタクトも多かった。テレビ局はすべて断ったが、アルジャジーラの取材だけは受けた。1F内で動画を撮影し、再びインタビューに応じる代わり、リビアへの入国と現地取材を手伝ってもらうという交換条件が成立したからだ。
 暴力団に対する風当たりは年々強まり、近々、取材さえ困難になる。この分野だけでは、そう遠くない将来、路頭に迷う。暴力団記事が消滅するかもしれない……慢性的な不安を抱えている私は、次のターゲットを戦地と決めていた。組織対組織の暴力団抗争を突き詰めていけば、最後は国家対国家の戦争にたどり着くのではないか。そう考えたのだ。
 戦場取材には多くのエキスパートがいて、そう易々と入り込めないことは分かっている。また彼らの中には「求められる文章や写真が定型化してしまい、もう辞めよう」と考えている記者もいると聞いていた。が、マンネリ化に対する拒否反応は場数を踏んだ専門家だけの苦悩である。食えるか食えないかはともかく、私のような戦争初心者にとって、新鮮な体験となることだけは間違いない。
 東日本大震災前、取材場所として選んでいたのがリビアだった。カダフィという独裁者がなんとも暴力団的だし、2010年のジャスミン革命から始まった“アラブの春”はリビアにも到達すると予想した。アルジャジーラの記者に訊いても、独裁政権が崩壊するのは原発取材が終わった頃だろう、とアドバイスされた。暴力団—原発事故—リビアという流れを、「危険」というキーワードで括れば、一本の筋がビシッと通る。
 結局のところ、このプランは失敗だった。1Fでの勤務最終日、首都・トリポリが陥落してしまったからだ。
                             (鈴木 智彦/文春文庫)