2020年10月1日木曜日

<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(4~6)(東京新聞)

  東京新聞のシリーズ<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>の(4)~(6)を紹介します。

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<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(4)
 体の汚染 確認せず避難
                         東京新聞 2020年9月25日
 東日本大震災の大きな揺れが東京電力福島第一原発(イチエフ)を襲った時、所内では東電社員約七百五十人、下請け企業の作業員約五千六百人の計約六千三百五十人が働いていた。
 高台にある事務本館では天井パネルが落下し、多くの棚が倒れた。机の下に隠れて机ごと動かされ、閉じ込められた人もいた。
 当時の吉田昌郎(まさお)所長(故人)は、事務本館の西側にある免震重要棟に避難し、グループごとに人数を確認するよう指示した。この棟は、免震構造で非常用発電機もあり、長く最前線基地として使われた。

 4〜6号機は定期点検中で、原子炉周辺の放射線管理区域では約二千四百人が作業をしていた。同区域を出るには、汚染検査を受ける必要があるが、ゲートを開けて避難を最優先した。「警備員もいなかった。身体汚染の有無も確認せず退出するしかなかった。地震で物が散乱した中、防護服を脱ぎ、自分の服に着替えるのも一苦労だった」。ベテラン作業員のハッピーさん(通称)は思い出す。
 避難はうまく進んだが、ゲート近くの建屋に保管されていた約五千個の個人線量計は、津波で水没し使用不能に。当初の作業員の被ばく線量が十分把握できない事態につながった。


<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(5)
 無防備だった地下設備
                         東京新聞 2020年9月26日
 東京電力福島第一原発(イチエフ)を襲った大津波は、やすやすと防潮堤を乗り越え、海抜約十メートルの敷地も超え、1〜4号機の建屋は最大五・五メートルの高さまで浸水した。
 海水は出入り口や吸気口などから建屋に入り、地下階の電源盤や非常用ディーゼル発電機は水没。地上にあった6号機の空冷式発電機一基は生き残ったが、1〜4号機は遠く離れ、各所に電力を送る電源盤が使えなくては、手の打ちようがなかった。

 原子炉周辺は海抜約四十メートルの高台を約三十メートル削って敷地造成をした。軟弱な表層を削る必要があり、海水ポンプとの高低差を小さくし、船からの資材搬入の利便性などを考えての判断だった。敷地の高さを超える大津波は来ないとの甘い想定もあった。
 一九九一年には1号機で海水配管の亀裂で地下階の非常用発電機が水没するトラブルがあり、九九年にはフランスの原発で河川氾濫で地下階が浸水し、非常用冷却装置などが機能喪失した。東電がこれらの教訓に学び対応していれば、福島第一の状況は大きく異なっていた可能性が高い
 ベテラン作業員のハッピーさん(通称)は「水没トラブル後も、対策されないまま放置されていた。安全対策工事も山積していたが、各号機の稼働率やコストが優先され、安全は二の次になっていたのではないか」と振り返った。


<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(6)
 計器、弁…もろい電気仕掛け
                         東京新聞 2020年9月29日
 建屋地下が水没し、ほぼ全ての電源を失った東京電力福島第一原発(イチエフ)では、原子炉の水位や冷却装置などを操作するどころか、状況もほとんど分からなくなった。「操作もできず、手も足も出ないのに、われわれがここにいる意味があるのか」。東電の事故調査報告書には、暗い中央制御室で、運転員同士で言い合ったとの証言が記されている。
 例えば、2号機で消防車を使って外部から注水できるよう配管構成を変える作業をした場面。通常なら制御室のスイッチ操作で、直径六十センチの配管の大きな弁も二十四秒で開閉できる。だが事故現場では、暗闇の中、防護服を着てはしご上の作業となり、十人がかりで一時間かかった
 磁力や空気圧で作動する弁の場合には、電力やコンプレッサーで高圧の空気を送る必要がある。計器類の多くも電力を必要とした。運転員らは車などのバッテリーをかき集め、対応する必要があった。
 事故発生直後、部下とケーブル敷設に当たった作業員は、「とにかく電源を復旧させようと必死だった。放射線量も分からない暗闇の中、重い電源ケーブルを8の字に巻いて運んだ。夕方から朝までぶっ通しの作業が続いた」と振り返った。昼間は消防隊や自衛隊などが冷却水の放水をするため、原子炉建屋周辺の作業は難しい夜間が多かった