2019年9月16日月曜日

東電旧経営陣判決を前に[1]~[4完](河北新報)

 東電福島第1原発の安全対策を怠ったとして、業務上過失致死傷罪に問われた旧経営陣3人への判決が19日、東京地裁で言い渡されます。
 河北新報が、判決を前に4人の被害者の思いに耳を傾けました4人とも訴訟の原告団に参加し、3名はそこで役員を務めています。
 もうひと方は、いつも一緒で「じいちゃんと結婚したみたい」と言われていた義父を原発事故の翌月に自殺で亡くしている人です。
 [1]~[4]の全編を一括して紹介します。
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<それぞれの8年半>
東電旧経営陣判決を前に[1]事故の責任告訴で問う
  河北新報 2019年09月12日
◎福島県三春町 武藤類子さん(66)
 東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第1原発の安全対策を怠ったとして、業務上過失致死傷罪に問われた旧経営陣3人への判決が19日、東京地裁で言い渡される。事故は多くの命や古里を奪い、8年半たつ今も人々に深い苦しみをもたらし続ける。判決を前に被害者の思いに耳を傾けた。
 
 「私は原子力に関心を持たずに生きてきました。でも今は…」
 福島原発告訴団長の武藤類子さん(66)=福島県三春町=が7月、宇都宮大で学生ら70人に自身の半生を語った。震災の関連授業に特別講師として招かれた。
 第1原発事故後、各地で講演を重ねる。「一人一人が問題を考え、広がっていく。草の根の活動こそが社会の変化につながる」と信じるからだ。
 特別支援学校の教員を務める傍ら脱原発運動に参加してきた。「原発は一度事故を起こせば人が住めなくなる」。1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故が転機となり、30年以上活動を続けている。
 
■まさか福島で
 2011年3月も、運転開始40年が近づく第1原発の廃炉運動に向けて準備を進めていた。巨大地震の発生から落ち着く間もない12日午後、原子炉建屋爆発の一報が入った。
 「チェルノブイリと同じだ」。でもまさか、福島で-。すぐに避難を始めた。「炉心溶融」の言葉が頭をよぎる。後に、現実の出来事だと知った。
 人類史に残る大事故。すぐに原因究明に向けた捜査が始まると思ったが、音沙汰はない。それどころか賠償は加害者の東電が主導し、避難者は見知らぬ土地で虐げられ、被害者同士の対立すら生じている。現実は違和感の連続だった。
 
 「なぜ事故が起きたのか。責任の所在と真実が、刑事裁判なら明らかになるのではないか」。東電旧経営陣らの責任を問い、人生初の告訴に踏み切った
 賛同の輪は広がり、全国の1万4716人が告訴・告発に名を連ねた。「有罪の根拠が薄い」と不起訴処分にした東京地検に対し、市民で構成する検察審査会は2度にわたり「起訴すべきだ」と判断。元会長ら3人の強制起訴が決まった。まさに民意が手繰り寄せた裁判だった。
 
■貴重な証言も
 37回の公判の度に東京へ通い、傍聴席で書きためたノートは14冊。東電が津波対策を先送りした背景に「収支悪化」があったと明かす元幹部の証言も初めて聞いた。「起訴されなければ廃棄されていた証拠が数多くあった」と振り返る。
 元会長は法廷で「安全の責任は一義的に担当部署にある」とし、自身の責任を否定した。「これが原発事業トップの言葉。無責任社会を表している」。むなしさが押し寄せた。
 裁判では、死傷した57人だけが被害者とされたが「実際は計り知れない数の被害者がいて、後世にまで影響する大事な裁判」と武藤さんは言う。未来を見据え、司法に望みを託す。
 「原発事業者の責任をしっかり示してほしい。二度とこんな事故が起きないように」
 
 
<それぞれの8年半>
東電旧経営陣判決を前に[2]「命軽視」の責任を問う
  河北新報 2019年09月13日
◎福島県飯舘村 大久保美江子さん(66)
 9度目の送り盆となった8月16日、大久保美江子さん(66)=福島県飯舘村=は故人が好きだった花と甘い菓子を墓前に供え、手を合わせた。
 「大往生させてあげたかった。それが、一番の心残り」
 2011年4月、義父文雄さん=当時(102)=が自宅で首をくくった。東京電力福島第1原発事故を受け、政府が村全体に避難指示を出すと発表した半日後のことだった。
 「どうして、こんなことしたの」。亡きがらを見つけ、問いをぶつけた後の記憶がない。
 
■無念を晴らす
 美江子さんは20歳で、隣町から嫁いできた。仕事で帰りが遅い夫より文雄さんと過ごした時間が長く、よく「じいちゃんと結婚したみたい」と冗談めかして語った。
 99歳の白寿祝いには親族ら80人が集まり、文雄さんは大好きな相撲甚句を歌って沸かせた。翌年、100歳になると各方面からの賞状や記念品贈呈にてんてこ舞い。やしゃごら4代に囲まれ、うれしそうに座る姿が写真に収められている。
 その2年後。眠るような死に顔だった。「ちいっと長生きし過ぎたな」。最後に聞いた言葉が頭から離れない。
 
 土地を愛し、農業で生計を立てた文雄さんにとって飯舘村は人生そのものだった。原発が憎い。後を追いたくなる衝動を抑え美江子さんは15年7月、東電の責任を問う民事訴訟を提起した。無念を晴らしたい一心だった。
 
■「誠意見えず」
 「深くおわびします」
 18年2月の福島地裁判決で東電の敗訴が確定し、社員が自宅へ謝罪に来た。「線香を上げてほしい」と美江子さんが願っていたためだ。
 一応はかなったが、後から「事後処理」の担当者と聞いた。「一人の人間が亡くなっている。本来は事故責任が問われた当時の経営者が来るべきで、誠意は見えなかった」と振り返る。
 美江子さんは東電に「あなたの大切な家族だと思って考えてください」と何度も訴えていた。東日本大震災後、県内では関連が認められただけでも100人以上が自殺。原発事故の影響は明らかなのに、淡々とした態度は人ごとのようだった。
 命を軽視する姿勢は事故前からずっと続いていると感じる。刑事裁判では、東電が津波の恐れを認識しながら対策を先送りした経緯が明らかにされた。
 当時の経営者は責任を否定したまま判決の日を迎える。「手抜きをせず、命を最優先にすれば防げた事故だった。事故の責任は誰にあったのか、心ある司法判断を示してほしい」。美江子さんは望む。
 
 
<それぞれの8年半>
東電旧経営陣判決を前に[3]明確な企業責任を追求
河北新報  2019年09月14日
◎福島県双葉町 小川貴永さん(49)
 山あいの土地に、大きく伸びた草木がびっしりと生い茂る。ハチがニセアカシアの花々を飛び交い、甘い蜜を運んでいた養蜂園の面影はない。
 東京電力福島第1原発が立地し、全域避難が続く福島県双葉町の帰還困難区域。「すっかり雑木林に戻ってしまった」。8月9日、避難先のいわき市から久しぶりに訪れた小川貴永さん(49)がつぶやいた。
 
■生活基盤失う
 東京からUターンし、30代半ばで就農した。耕作放棄地約1.6ヘクタールを取得して2年かけて開墾。収穫した蜂蜜が品評会で高い評価を受け、加工品の販売にも手応えを感じ始めた頃に事故は起きた。
 「人生を歩むための生活と生産の基盤が一瞬でなくなった」。双葉地方の豊富な食材を生かし、友人2人と営む農家レストランを建設中だった。海も山もある豊かさ、人々とのつながり…。1歳と0歳だった息子が、古里の記憶を育む機会も奪われた。
 なのに、被害を加えた側が一方的に賠償額を決めているのはおかしい。古里喪失に伴う慰謝料など損害賠償を東電に求め、双葉地方の住民らが2012年12月に起こした集団訴訟に参加した。原告団の事務局次長を務める。
 
 18年3月に出た福島地裁いわき支部判決は国の中間指針を超える賠償を一部認めたが、水準は低く、住民側と東電側の双方が控訴した。仙台高裁での審理は終盤を迎えた。
 現在の賠償は、過失の有無にかかわらず事業者が賠償責任を負う原子力損害賠償法に基づく。「巨大津波は予見できず、事故の回避も不可能だった」と過失を否定し続ける東電。
 東電の企業としての責任が不明確なことが一番の問題との思いが強い。「企業責任が曖昧だから賠償の判断も曖昧になる」。その理屈は復興の在り方にも通じると感じる。
 
■「薬と毒共存」
 町は22年春を目標に中心部でインフラを整備し、居住開始を目指す。第1原発は廃炉作業が続く一方、町内では除染廃棄物の中間貯蔵施設の整備も進む。
 「狭い範囲に薬と毒が共存し、両方が同時並行する厳しい現状。事故責任をはっきりさせ、けじめをつけなければ薬と毒が混じり合い、真の復興は望めない」
 昨年夏、町民が多く暮らすいわき市勿来町酒井地区の災害公営住宅の一角に飲食店を開いた。会津地鶏や川俣シャモなど県産食材の料理を提供。将来は双葉町内で1次産業の生産と加工を復活させようと、技術を磨く場とも位置付ける。
 東電旧経営陣の刑事責任が問われた裁判を「組織の責任を明確にする意義は大きい」と注目している。
 「津波が悪かった、で終わっていいのか。次に生かさないと、われわれがこれだけの被害に遭った意味がなくなってしまう」
 
 
<それぞれの8年半>
東電旧経営陣判決を前に[4完]廃炉後押しの判断期待
  河北新報 2019年09月15日
◎福島市 今野寿美雄さん(55)
 うだるような暑さとなった8月3日。夏休みに福島県を訪れた大阪府内の小中学校教員20人を、今野寿美雄さん(55)=福島市=が東京電力福島第1原発事故で一時全町避難を強いられた富岡町へ案内した。
 フレコンバッグが並ぶ最終処分場や、桜並木の見物客でにぎわった夜の森地区を案内した今野さん。東日本大震災と原発事故後、被災地のガイドを務める理由を「放射能に汚染された廃棄物の山、人けのない街並み…。福島の日常を知ってほしい」と話す。
 
■「やっぱりな」
 元原発作業員。18歳で大熊町に本社がある東電の関連会社に就職した。初めての配属先は、営業運転を開始したばかりの福島第2原発。通算15年ほど、エンジニアとして第1、第2原発に出入りした。
 主に通信・発電機器のメンテナンスを担当していた当時は、原発を仕事としか見ていなかった。ただ、安全対策にはかねて疑問を抱いていた。
 特に第1原発は他の原発より低い場所に位置し、大雨や津波による浸水に弱いというのが現場作業員の共通認識だった。
 電源設備が地下にあることも不安要素の一つ。非常電源を地上に移し、防潮堤を高くするといった対策を、いくらでも講じることができたはずだ。
 だから、第1原発が事故を起こしたと知って驚くと同時に「『やっぱりな』という思いも強かった」。避難生活を覚悟し、震災発生翌日の2011年3月12日に退職。県内の温泉旅館などを転々として15年、福島市飯坂町の災害公営住宅に落ち着いた。
 
■無責任な言葉
 退職後、県内外で開かれる脱原発の集会に足を運ぶようになった。原発の現場を知る自分にしか語れない言葉を伝えようと、東電旧経営陣の責任を追及する告訴団の副団長を引き受けた
 17年6月から37回を重ねた公判では、津波対策を先送りにした当時の経営方針が明らかになった。3人の被告が法廷で何度も繰り返した「責任はない」「記憶にない」「知らない」との無責任な言葉が強く印象に残った。
 事故から8年半。浪江町の旧避難区域にある自宅は荒れ果て、解体が決まっている。何千万円と借金して建てた夢のマイホーム。10年足らずしか住めず、被災地ツアーの参加者を連れていくたびに悔しさが込み上げる。
 ガイドの傍ら、被災した子どもたちにキャンプやスキーなどレジャーを楽しませる活動にも力を入れ、29年勤めた会社にも原発にも未練はない。
 「原発は、当たり前の暮らしを全て奪い去る」。判決が旧経営陣の事故責任を認め、国内の原発全てが廃炉に向かうことを願う。
(この連載は福島総局・斉藤隼人、近藤遼裕、いわき支局・佐藤崇が担当しました)