東京新聞のシリーズ<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>の(7)~(9)を紹介します。
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<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(7)
震災初日に炉心溶融
東京新聞 2020年9月30日
東京電力福島第一原発(イチエフ)1号機は大津波に襲われた三月十一日に、炉心が溶け始めた。
電力を失い、中央制御室ではほとんど事態が把握できない。原子炉の冷却装置の一つは電源が水没し起動不能。消防車で外部から注水しようとするが、炉内の圧力が上昇して水が入らない。唯一残されたのが「イソコン」と呼ばれる冷却装置だったが、起動しては止まる不安定な状況。少なくとも午後九時半までの三時間、炉心への注水は完全に止まっていた。
原子炉建屋の放射線量が高いとの一報を受け、午後十一時、保安班が調べると内部は毎時三〇〇ミリシーベルトと推定された。人が近づける限界は毎時一〇〇ミリシーベルトが目安。立ち入りは極めて厳しい状況だった。
翌朝、格納容器の圧力を下げるベント(排気)をするため弁を開けようと運転員が建屋地下に向かったが、一〇〇〇ミリシーベルトまで測れる線量計が振り切れ、引き返した。別の弁を開けに向かった。
「暗闇で放射線量も分からない中、運転員が向かった。無事でありますように、成功してほしいと祈るような気持ちでいた」(当時の福島第一の広報担当・角田桂一さん)
ベントには成功したが、各所から漏れた水素ガスが建屋にたまっていた。午後三時三十六分、予想外の水素爆発で建屋上部が吹き飛んだ。
<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(8)
複数炉 連鎖するリスク
東京新聞 2020年10月1日
崖を崩して造成した狭い敷地に東京電力福島第一原発(イチエフ)1〜4号機は並ぶ。効率はいいかもしれないが、事故時は危機が連鎖する複数炉の問題が表面化した。
三月十二日午後、予想していなかった1号機の水素爆発で、せっかく完成しかけていた消防車三台を直列につないでの海水注入のホースが吹き飛んだ。電源車から電力を供給すべく、人力で重いケーブルを敷設する作業も進んでいたが、これも損傷した。
一時退避による作業中断、がれきの撤去、作業のやり直しで貴重な時間が失われた。
十四日には3号機でも水素爆発が起き、2号機の作業に深刻な影響を与えた。
炉心冷却用にほぼ準備が終わった海水注入のホースや消防車が損傷。建屋内では、注水に向け格納容器の圧力を逃す準備が進められていたが、爆発の衝撃で排気(ベント)配管の弁の回路が壊れ、弁が閉じてしまった。代替策を講じる間に、2号機の状況は急速に悪化した。
「3号機が吹っ飛んだ」との一報を受け、テレビを見た当時の東電福島事業所の小山広太副所長はがくぜんとした。「あんな分厚い原子炉建屋が…」。絶対安全と信じていたものが崩れた瞬間だった。その日夕方には、今度は2号機の核燃料が露出し始めた。「大きな津波が次々押し寄せてくるような感じだった」
<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>(9)
作業員 終わらぬ闘い
東京新聞 2020年10月2日
「ここで死ぬのか」。二〇一一年三月十四日、東京電力福島第一原発(イチエフ)3号機が水素爆発した時、建屋に入ったばかりの作業員ハッピーさん(通称)は感じた。下から突き上げるような衝撃とともにすさまじい地響きがし、思わず尻もちをついた。天井からはがれきがドカドカ落ちてきた。
外に出ると黒煙が上っていた。がれきが散乱する中、必死で走り免震重要棟へ。白い防護服が血に染まった人や、粉じんで全身真っ黒になった人。戦場のようだった。その後、吉田昌郎(まさお)所長は「今までありがとうございました」と放送で呼びかけた。必要最低限の東電社員を残し、社外の作業員を退避させるためだった。ハッピーさんらは、いったん原発を離れた。
松林の中、整然と建屋が並んでいたイチエフは見る影もなかった。1、3、4号機は水素爆発で無残な姿となり水蒸気が上っていた。あちこちに割れたコンクリートや曲がった鉄骨が散乱。2号機は格納容器の破裂という最悪の事態は避けられたが、状況は刻々と悪化していた。
少し事態が落ち着いた段階で、作業員は次々と現場に戻り、外部電源の復旧やがれき撤去などに当たった。さらには、注入した冷却水が高濃度汚染水となって建屋地下にたまっているのが見つかる。新たな闘いの始まりだった。
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