2022年3月21日月曜日

30年ぶり福井で生活し原発取材 何が変わり、変わらなかったか

 1990〜93年に福井支局敦賀駐在で原発取材を担当して以来、約30年ぶりに2020年から2年間、再び敦賀原発取材をする生活を送った毎日新聞の記者が、「原発取材 何が変わり、変わらなかったか」という記事を出しました。

 福島事故で故郷を失い、家族が散り散りになった福島の人々の現実を知った今、再び原発の重大事故が起きた時、「国策だから」と国のせいにして自分が容認したことを免罪することが許されるのかと問い、「原発なしにはやっていけない」というのは、「原発は安全である」と並ぶ「原発神話」の一種ではないのだろうか、と述べています
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
30年ぶり福井で生活し原発取材 何が変わり、変わらなかったか
                          毎日新聞 2022年3月20日
 1990〜93年に福井支局敦賀駐在で原発取材を担当して以来、約30年の時を経て2020年に私は再び敦賀駐在で原発取材をする生活を送った。まるでタイムマシンに乗って過去からやってきたような2年間。見えてきた景色に、変わったものと変わらなかったものがある。【大島秀利】

勢いあった30年前
 変わった景色。2年前、福井県敦賀市に一歩踏み入れて実感したのは、この市では一基も原発が動いていないという現実だ。
 30年前、市内は敦賀原発1、2号機に加え、新型転換炉「ふげん」が稼働し、将来の「原発の本命」と目されていた高速増殖炉の原型炉「もんじゅ」の初臨界が近づいていた。さらに敦賀半島では敦賀3、4号機新設の動きも浮上し、原発推進という国策と大消費地である関西圏の電力供給を担う「原発の1丁目1番地」の様相だった。県全体ではもんじゅを含め原子炉は15基体制となり、隣の石川県でも北陸電力志賀原発が稼働しようとしていた。さらに同県内の能登半島の突端付近では「珠洲原発」建設の動きもあり、北陸での原発の勢いが目立った。

廃炉、生活に支障なし
 あのころと今のギャップはあまりにも大きい。
 ふげんが廃炉になった後、2011年3月の東京電力福島第1原発事故が起きた。それを契機に、福井県内はもんじゅや、商業原発5基が廃炉に。直下に活断層があると指摘された敦賀原発2号機や志賀原発は動かすことができない——このような状態が10年以上続いている
 私は最近2年間、敦賀市などをみてきたが、原発が動いていないことで市民生活に著しい支障が起きているとは思えなかった。もちろん、自治体の財政上は、原発関連の固定資産税や国の交付金などが依然入っているのだが、まがりなりにも「原発が稼働しない中での生活」が続いているという事実を誰も否定できない。
 むしろ私がこの2年間で強く感じたのは、この福井など北陸がもともと、いかに恵まれた場所であるかということだ。季節ごとに味わいが違う新鮮な魚介類、それをはぐくむ美しい海、ふところが深くさまざまな表情を見せる山々。年の功というものなのか、30年前には分からなかった価値が見えてきた。これを守り、生かさない手はないと思う。

変わらないのは「意識」
 以前も今も、変わっていないもの。それは、「原発なしではやっていけない」という意識が、ある人々に存在していることである。まがりなりにも、10年以上、敦賀市などでは原発なしでやってきた。それなのに、原発が必要と考えている人たちがいる。
 私が思うに、福島原発事故が示したのは、万が一のときに原発がもたらす惨禍のリスクの大きさだ。原発なしで暮らせるにこしたことはないはずだ。福島事故で故郷を失い、家族が散り散りになった福島の人々の現実を知った今、再び原発の重大事故が起きた時、「国策だから」と原発の受け入れを国のせいにして、自分が容認したことを免罪することが許されるのか。
 ロシアがウクライナの原発を侵攻のターゲットにしたことで新たなリスクも認識された。「再稼働などを容認するならば、自分自身が事故や重大事態が起きたときに、どのように責任をとるのか。例えば、『全財産をなげうって責任を取る』などと表明してからにしてほしい」という声も聞いた。
 関西電力美浜原発3号機が再稼働した昨年6月のころ、美浜町議の松下照幸さん(73)はこう説明した。「福島事故直後は『原発があることの心配』が強かったが、廃炉の時代に向かうに従って『原発がなくなることの不安』がもたげてきた。その不安を解消させる地域振興こそカギなのです」
 「原発なしにはやっていけない」というのは、「原発は安全である」と並ぶ「原発神話」の一種ではないのだろうか。そう問い直さずに、原発立地地域に新しい未来はやってこないのではないか。