2020年11月16日月曜日

16- 1度原発で働いたヤツは、原発に帰ってくる ~ 1Fのうま味とは (2/2)

   文春オンラインに、30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏の著書『 ヤクザと原発 福島第一潜入記 』(文春文庫)から一部が転載されました。

 2回ものの後半部です。
            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「1度原発で働いたヤツは、原発に帰ってくる」 作業員を離さない、福島1Fの“うま味”とは  (全2回の2回目
                  鈴木智彦 文春オンライン 2020/11月15日
小名浜ソープ街バブル「4人で50万円払った」 3.11後、原発作業員が殺到した“ヤバい”店 から続く
 30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏は、あるとき原発と暴力団には接点があると知った。そして2011年3月11日、東日本大震災が発生し、鈴木氏は福島第一原発(1F)に潜入取材することを決めた。7月中旬、1Fに勤務した様子を『 ヤクザと原発 福島第一潜入記 』(文春文庫)より、一部を転載する。(全2回の2回目/ 前編 より続く)

東電を本気で批判する作業員は少数
 ソープの他、毎日、誰かを誘って飲みに出た。相部屋で本音を聞き出すのは無理だし、酒が入れば自然と口が軽くなる。何人かに話を訊くうち、ようやく作業員の実像がみえてきた。彼らが日本のために尽力していることは事実である。が、これだけの事故が起きても、東電を本気で批判する作業員は少数だ。

「なんもかんも津波が悪い。あんなに大きな津波が来るなんて誰も思わないっぺ」
 上会社の責任者は、東電の言う“想定外”という言葉をそのまま繰り返した。
「原発は安全だ。事故は仕方がなかった」
 もちろん、細かい部分での不満はたくさん訊いた。が、原発で飯を食っている人間にとって、東電は神様的存在であり、生活を支えてくれる恩人なのだ。3月のようにきわめて線量が高かった時分ならともかく、私が勤務した7月、8月に関していえば、作業員たちの多くはこれまでの人間関係のしがらみ、もしくは金のために現場に出ていたように思う。その点、普通の労働者と変わりはない。
「本当はもう辞めようと思ってたのよ。重機の免許もあるし、二種免も持ってるから、他の仕事に就こうと思ってた。でも社長から電話もらって、金もいいし、今更他の仕事さがすのもしんどいし」(40代の作業員)
 彼自身、被災者であり、津波で自宅を失った。20キロ圏内にある地元には帰れないため、とある仮設住宅に入居しているらしい。1Fで勤務しているため、自宅に戻る必要はないが、義援金をもらうため週に1度は仮設住宅に戻らねばならない。これまで国産の大衆車に乗っていた彼は、私が勤務した1カ月後、高級外車に乗り換えた。
「さすがにこんな車で仮設住宅に戻れねえかんな。車はしばらくここ(旅館)においとくわ」

「1度原発で働いたヤツはやっぱり原発に帰ってくる」
 彼のみならず、旅館の駐車場に停めてある作業員の車は、次第に高級車へと代わっていった。現場作業を終え、Jヴィレッジに戻った際、タイベックを脱ぎ捨てたあと、体育館でサーベイを受けるが、そこにあった貼り紙にも「3月に小名浜コールセンターにて、身体サーベイをされたおりにスクリーニングレベル超えで作業着と共に『車の鍵(メルセデスベンツ)』を回収された方を探しております。お心当たりのある方は、Jヴィレッジ総務班にお越し下さい」とあった。
「1度原発で働いたヤツは、なんだかんだいってもやっぱり原発に帰ってくるんだ。もう他では働けない。いまさら野丁場(のちょうば=一般的な建築現場)には戻れない」
 同じ現場に配属された下請けの親方の言葉は、原発作業員の心情を端的に表している。

コツさえつかめば耐えられる原発での作業
 相変わらず使えない作業員ではあっても、次第に体が慣れてくると、1Fでの作業はうまみが多いと感じるようになった。暑さもさほど辛くない。装備を着込み、全面マスクを装着して現場に出ると、作業に夢中になってしまい暑さを感じる余裕がないのだ。
 作業後、必ず汗だくになるので、想像以上の暑さであることは間違いないが、私のように不摂生な生活を送り、さほどタフではなく、肉体労働をほとんどしたことのない人間でもコツさえつかめば耐えられる。溶接を担当する作業員は、タイベックの上にもう1枚つなぎを着るのでしんどいだろうが、彼らも作業に没頭しているときはさほど暑さを感じないという。
 線量も想像以上に低いし、現場を出たくないという声を何度も聞いた。もちろん私は東芝系列の作業しか体験していないので、他の部署のことは分からない。
 1Fの復旧作業はあちこちから同時並行で進められていた。
 6つの原子炉は、1号機が米GE(ゼネラル・エレクトリック社)で、2・6号機がGE・東芝連合、3・5号機が東芝、4号機が日立製作所が主契約者である。暴走した1〜4号機の炉心にはまだ手が付けられず、遮蔽された特別製トラックから遠隔操作ロボットを操り、専門部隊がメルトダウンした原子炉建屋の中の放射線量を調査・除染していた。汚泥や瓦礫を撤去し、道路などのインフラを整備したり、これ以上の放射性物質を拡散させないためのカバーを設置する準備も進んでいた(10月14日、1号機に設置)。絶え間なく冷却水を送り込み、汚染された水を浄化し、必要によっては敷地内のあちこちに設置されたタンクに移送する。私が就職した上会社は、この汚染水処理の一部を担当している。

東電やメーカーは現場の殿様だった
 たくさんの企業が参加しているため、1Fには東芝のシェルターの他、作業員の拠点がいくつかある。すぐ隣にはカバー作業員用プレハブ休憩所(竹中JV)があり、その反対側の企業センター研修棟、企業センター厚生棟にも2カ所の休憩場所がある。敷地内には正門休憩所をはじめ、野鳥の森近傍休憩所、日立・GE休憩所、海沿いには五洋建設の作業船休憩所、1号機の近くには原子炉建屋カバー工事休憩所、ヘリポート脇のコンテナハウス、旧緊対室休憩所、(汚染)水処理整備制御室・運転員休憩所、免震棟前には、2工区、3・4工区休憩所、5、6号機のサービスビル1階の休憩所は7月1日から緊急医療室として活用されるようになり、24時間態勢で医者が待機していた。私が就職したプラントメーカーより、瓦礫撤去や建物の復旧にあたっている作業員のほうが、きつい労働だったと思う。
 が、プラントメーカーの作業員たちは、こうした単純労働者を蔑視していた。自分たちが原発の中心にいるという誇りがあるからだろう。上会社の社員の1人は、敷地内で建築作業の人間をみかけるたび、「この土方が。邪魔なんだよ。どけよ」と暴言を吐いていた。背中に日立のシールを貼っている作業員をみても「おっ、敵だ。邪魔してやろうか」と冗談を飛ばしていたから、単に口が悪いのだろう。ただ、現場には厳然とした階級があった。内部資料を見せられたとき、東電と東芝には“殿”という敬称が付けられていた。実際、東電やメーカーは現場の殿様だった。

労働時間が短く、わがままが通り、衣食住もタダ
 当時、プラントメーカーの仕事は、汚染水処理が中心だった。前述したようにまだ本丸には触れられないため、毎日の被曝量も低い。平均すると0.06ミリシーベルト程度で、実働時間が1時間に満たない日もあった。
 被曝量が少ない上、日本のために尽力しているという誇りを持てる。1Fのすぐ近くにある広野火力発電所や福島第二原発に比べ、労働時間が短く、わがままが通り、衣食住もタダだ。Jヴィレッジで食料を配布していることは前述したが、このほか、プラントメーカーからも昼食は出される。危険に見合う額とは思えないが、どんな職種であっても、日当は最低、2割程度高く、贅沢さえしなければ、給料のすべてを使わずに済む。
 私の上会社では勤務時間の改ざんも行われていた。目撃したのは汚染水貯蔵タンク施工の安全講習が行われた時で、講習自体は午前中で終わった。事務所に戻ってくると、所長は自分の分だけ女性事務員にインスタントラーメンを作らせ、空腹の作業員からブーイングを浴びていた。帰宅できないのは、本日の講習を受け、レポートを提出しなければならないからで、それも1枚の見本を丸写しするという作業だった。2人の若い社員が答案をせっせと丸写しするのをみて、私もそれを手伝った。それも昼過ぎには終了し、所長はプラントメーカーに対する業務報告書を書き始めた。
「どうすっぺかな。午後4時半頃にしとくか」
「お昼には終わってるのに、なぜ4時半までかかったって書くんですか?」
「馬鹿言うな。(そうしないと1日分の)金がもらえないだろ」
 この上会社はプラントメーカーを変えたことがなく、その一途さが評価されていた。協力企業で構成する親睦会の会長となったこともあり、まさに蜜月関係にあった。メーカーがこうした実態を知っている可能性はある。

セシウムスイカとダチョウ狩り
 報告書が書き上がる寸前、下請け作業員の1人が冷蔵庫から凍ったスイカを取り出してきた。
「これ、4号機の脇で作ったスイカだ。3号機ではメロンを植えてたな。汚染水はあちこちにいっぱいあっかんね。それで育てた。セシウムスイカだ」
 日の当たっているアスファルトにスイカを置いて解凍した。テーブルに置いても、スイカを食べたのは取り出した本人と私だけだ。育ちが早く、すぐ収穫出来たらしい。スイカは異様に甘かった。放射能の影響なのかは判然としない。
 ダチョウ狩りに出かけたこともある。狩るといってもシューティングの道具はカメラだ。狩りには現場作業が早めに終わり、会社の事務所整理を手伝った際に行った。
「大熊町の民間農場で飼育されていたダチョウが震災によって逃げだし、大熊町内をうろうろしてる」
 同僚から話を聞いたときは嘘だと思った。調べてみると、元々1Fのマスコットとしてダチョウを飼育していた時期があったと知った。ごく少量のウランから膨大なエネルギーを生み出す原発を、少ない餌で飼育出来るダチョウに重ねたためで、その後、農園の経営者が引き取ったという。避難する際、経営者が檻を開け放ったとも聞いたが、当人が見つからないので、正確な事情は不明だ。
 その後、シェルターにダチョウを追い回す上会社のリーダーの写真が貼られた。タイベックを着込んだ人間とのツーショットは、なんともシュールで作業員の爆笑を誘った。どうやら特段苦労せずとも会えるらしい。カメラと一緒にペットフードも持参した。津波によって駅舎が失われた富岡駅付近を探したが、なかなか会えなかった。
 犬や猫、牛などは頻繁に目にした。その度にペットフードを置いた。みな痩せている。かつては艶々した毛並みだったろう洋猫は、所々毛が抜け、まだら模様になっていた。
 お目当てのダチョウには、無人の住宅街で見つけた雑種犬に、餌をやっている最中に遭遇した。路地から突然現れ、我々の車を見たまま動かなかった。油断して車に置きっぱなしのカメラを取るため、ゆっくり後ずさりした。物音を立てないよう静かにドアを開けたつもりだが、ダチョウはカメラを構える前に逃げていった。かなり痩せていた。このまま野生化すれば危険と見なされ、安楽死させられるかもしれない。
                            (鈴木 智彦/文春文庫)