2025年2月24日月曜日

24- 「福島第一原発事故」発生直後、東京電力本店で起きた混乱の一部始終

 22日付の現代ビジネスに掲題の記事が載りました。
 それは22年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された単行本『福島第一原発事故の「真実」』の内容を一部抜粋して紹介したものです。
 あまりに短すぎて参考になりませんが、そういう本が出ていたことを知るという意味はあります、
 今回は他に記事が殆どないので紹介します。
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「福島第一原発事故」発生直後、東京電力本店で起きた混乱の一部始終
                          現代ビジネス 2025/2/22
東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2022年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された文庫版『福島第一原発事故の「真実」ドキュメント編』より、その収録内容を一部抜粋して紹介する
震災から1時間余り、東京電力本店は福島第一原発からの緊急報告に直面した。外部電源が失われ、事態は急速に深刻化していく。緊急対策室の小森常務は、電源車の手配を急ぐが、続々と寄せられる報告に冷静を保つのは困難を極めた。原子炉の冷却状況を確認できないまま、福島第一原発で新たな危機が進行していた。

地震発生直後の東京電力本店
福島第一原発から南に230キロ。東京・内幸町の東京電力本店も激しい揺れに襲われていた。
午後2時46分、原子力部門ナンバー2の常務の小森明生(58歳)は、会議室で打ち合わせをしていた。波を打つような激しい上下動に見舞われた。震度5強だった。小森は、揺れが収まるのを待って、会議室を飛び出した。東京電力は、電力を供給している地域に震度6弱以上の地震があったとき、2階の緊急時対策室に対策本部を設置することにしている。フロアのエレベーターは、揺れを感知してすべて止まっていた。
小森は急いで階段で2階まで駆け下りた。緊急時対策室は、200人を収容できるスペースに、原発や火力発電所のほか各支店の対策本部を結ぶテレビ会議システムを備えていた。小森が対策室に入ったときには、すでにテレビ会議は立ち上がり、大型のディスプレイ画面に各地の対策本部の様子が映し出されていた。
金曜日の午後とあって、本店の緊急要員に指定されている社員が続々と集まってきた。しかし、対策本部長を務めるはずの社長の清水正孝(66歳)はこの日、不在だった。電気事業連合会の会長として、夫人を伴って奈良県の平城宮跡を視察していたのだ。会長の勝俣恒久(70歳)も副社長の一人と中国の北京に出張中だった。
原子力部門トップの副社長の武藤栄(60歳)がほどなく駆け込んできた。武藤は東京大学で原子力工学を学び、入社後にカリフォルニア大学にも留学した原子炉と安全解析の専門家で、原発の補修・建設畑が長かった小森にとっては、緊急時に頼りになる存在だった。

小森と武藤は、原発の状況を確認し合った。
「福島第一と第二はどうなっている?」
「福島第一、スクラム⇒緊急停止成功」
「福島第二もスクラムしています」
震源に近い福島第一原発は震度6強だった。福島第一原発と第二原発はスクラムに成功していた。冷却装置も始動していることが確認された。
「柏崎刈羽は?」
100万キロワットを超える大型の原子炉7基が並ぶ新潟県の柏崎刈羽原発は、震度5弱で、稼働していた4基の原子炉は運転を続けていた。小森も武藤も対策室のメンバーもほっとしていた。地震で原子炉がスクラムし、停止するのはみな何度か経験している。あとは原子炉を手順どおり冷やしていけばいい。
午後3時を過ぎた頃だっただろうか。
「外部電源を失っています」
ひやりとさせる報告がきた。福島第一原発からだった。外から供給を受けていた電気が途絶えたという連絡だった。対策室がざわついた。しかし、小森は慌てていなかった。その福島第一原発の所長を小森は2年にわたって務めていた。外部電源の喪失は事故対応マニュアルに記してある。外からの電気が絶たれても、発電所には軽油で動く非常用発電機とバッテリーも8時間もつ機器が備えられている。
テレビ会議の画面では、8ヵ月前に引き継ぎをした後任の吉田が、そうしたバックアップの電源が所定どおり動き始めていることを報告していた。対策室の空気が和らいできた。
テレビ会議を通して、福島第一原発だけでなく、福島第二原発や柏崎刈羽原発から現状や対処の方法について、報告や指示を求める連絡が次から次に飛び込んできた。対策室はごった返していた。
停止した原子炉内の温度を100℃以下に冷やす「冷温停止」に向けて、みな、担当の仕事をあわただしくこなしていた。

途絶えることのない報告を受けていた小森のもとに、武藤が対策本部から離れるという連絡が入ってきた。東京電力は、中越沖地震の原発火災の際、地元への説明が不十分だったと厳しい批判を受けて、大きな地震発生時は、原子力・立地本部長自らが原発に赴き、地元支援にあたることにしていた。
武藤は、福島第一原発から南西に5キロ離れた大熊町役場近くに建てられたオフサイトセンターと呼ばれる国や福島県など関係機関が集まって避難対策を協議する拠点に行くことになった。
武藤が小森に近寄り「よろしく頼みます」と短く声をかけ、部下3人と一緒にあわただしく対策室を後にしていった。午後3時半、武藤は本店を出発し、新木場のヘリポートに向かった。
頼りになるはずの武藤がいなくなり、会長も社長も不在の対策室のリーダーは、名実ともに小森となった。責任が小森の肩に重くのしかかってきた。その10分後の午後3時42分のことだった。
10条の発令をお願いします」
吉田の声だった。本店対策室の緊張が一気に高まった。福島第一原発の免震棟を映し出すディスプレイ画面から円卓を行き交う「SBO!」という言葉が何度も漏れ聞こえた。非常用発電機が動かなくなった。電源が失われた。信じられない異常事態だった。その原因もわからないという。どうすればいいのか。テレビ画面を通して、230キロ離れた東京本店と福島第一原発との間で、もどかしいやりとりが続いていた。
しばらくすると、テレビ画面の吉田が、電源車を用意してほしいと要望してきた。小森は、すぐに本店の配電部門に電源車を福島に送るよう指示を飛ばした。とにかく電源確保だ。そのためには電源車だった。午後4時10分、本店の配電部門から東京電力全店の配電担当者に、電源車を確保するよう一斉に指示が出た。東京電力は各支店に、6900ボルト用の高圧電源車と、100ボルト用の低圧電源車を多数所有していた。20分もすると、配電担当者のもとに、高圧電源車48台、低圧電源車79台が準備できると報告があがった。電源車は、用途によってボルト数や仕様が様々だった。しかし、今は、何より早く到着できるかが問題だった。配電担当者は、どの電源車もすぐに出発するよう指示を出した。福島に近い東北電力にも電源車の救援を依頼した。全国各地から手当たり次第に電源車が福島第一原発に向かい始めた。
ちょうどこの頃だった。午後4時45分、本店対策室の緊迫度をさらに高める状況になった。
吉田がテレビ会議で原災法15条を通報したのだ。福島第一原発1号機と2号機の中央制御室では、原子炉の冷却が行われているかどうか確認できないというのだ。
送られてきた15条通報のファックスを手に、小森は言葉を失った。「これはえらいことになるかもしれない」と思った。
一方、新木場に向かっていた武藤は、車の中で電源喪失の連絡を受けた。とにかく一刻も早く福島に行かねばならない。焦る気持ちと裏腹に、普段は20分で行く道が大渋滞となり、車はまったく前に進まなくなった。ついに武藤らは、ヘリポートまで数キロというところで、車を降りて歩いて行こうとした。ところが、歩き始めたら液状化のため、膝まで泥に浸かり、二進も三進もいかなくなってしまった。困り果てた武藤は60歳にして生まれて初めてヒッチハイクを試みた。緊急時においても親切な人はいるもので、武藤らはヒッチハイクを2回重ねて、泥だらけになって新木場にたどり着いた。待ちかねていたヘリコプターに乗り込んで福島へと飛び立ち、午後6時過ぎ福島第二原発のヘリポートに降り立った。あたりはすっかり薄暗くなっていた。

こうして中央制御室も免震棟も東京本店も、電源を奪われた原発がどうなっていくか、実感もなく想像もつかないまま、日本はおろか世界中を震撼させる未曾有の危機に飲み込まれていったのである
NHKメルトダウン取材班