2024年4月3日水曜日

03- 福島民報【霞む最終処分】(11)~(14)

 福島民報が断続的に掲載している「霞む最終処分」シリーズです。今後バックナンバーを随時4編ずつ掲載して行きます。

 今回は(11)~(14)を紹介します。
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【霞む最終処分】(11)第2部「変わりゆく古里」 「神社守り抜く」決意 人々の営み、蘇るよう
                           福島民報 2024/01/15
 東京電力福島第1原発から北に約1・5キロ離れた双葉町郡山地区の中心部に、正八幡(しょうはちまん)神社がたたずむ。住民の心のよりどころとして大切に守られてきた。原発事故により周辺は中間貯蔵施設の敷地となった。除染土壌を積んだダンプカーが行き交い、重機がうなる。田園が広がっていた穏やかな風景は変容を遂げている。
 「先祖から受け継いできた神社を守り抜くのが使命だ」。氏子総代の大須賀義幸(80)は決意を示す。
 平安時代が起源と伝えられる神社は、長きにわたり住民の信仰を集めてきた。人生の節目に願をかけたり、祭りなどで集まる「鎮守の森」の役割を果たした。正月に神楽が奉納され、8月には住民が「小湊音頭」を踊った。地区内の郡山海岸にあったとされる「小湊」の風景を表す唄だ。人々は輪になり、心を一つにした。「神社は絆を確かめ合う大切な場でもあった」と大須賀は懐かしむ。
 中間貯蔵施設の敷地には郡山地区全体が含まれた。「神社は何としても壊さずに残してもらいたい」。環境省の職員が訪ねてくるたびに、大須賀ら氏子は思いを伝えた。交渉を重ねた結果、神社や薬師堂、共同墓地は存続できることになった。神社を後世につなぐ―。住民の願いはかなった。
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 神社の鳥居は東日本大震災で崩壊し、2016(平成28)年に再建された。同時に復興記念碑も建立された。避難を強いられた現状や、未来への願いを伝えようと、行政区が建てると決めた。碑には古里への思いが刻まれている。
 「氏子一同、長きに亘りこの地を離れることを強いられるが、先人がこの地への一歩を記し、心の拠り所として崇め守り続けた鎮守神を末代まで受け継ぎ、再び、人々の営みが蘇ることを願い、この鳥居を建立する(原文のまま)」
 当時の行政区長・福岡渉一(73)、森秀樹(73)ら役員が考案した。森は「高齢の氏子が郡山に戻るのは恐らく無理だろう。でも、次世代がきっとまた神社に集まるはずだ」と未来を見据える。
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 神社の再興には中間貯蔵施設で保管している除染廃棄物の県外最終処分が不可欠だ。今は処分場所が見通せないなど課題が山積するものの、氏子は再び集える日を信じ、避難先から神社の手入れに通い続ける。大須賀もその一人で、約60キロ離れたいわき市から毎月のように訪れ、除草や枝切りに汗を流す。「国は最終処分を完了させ、神社に再びにぎわいを戻す役目がある」と訴える。
 中間貯蔵施設が建設された郡山地区。用地交渉では、大須賀を含む住民は愛着のある土地を手放すか否か、苦渋の選択を強いられた。
 自宅の敷地が中間貯蔵施設に含まれた住民は、除染廃棄物の県外最終処分後の未来を見据える。古里への愛着を持ち続ける住民の姿を追う。(敬称略)


【霞む最終処分】(12)第2部「変わりゆく古里」 先祖代々の地に地上権 返還時安心の場所に
                           福島民報 2024/01/16
 2014(平成26)年8月、県は東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設の受け入れを容認した。建設地に含まれた双葉町郡山地区の約120世帯の住民は大きな決断を迫られた。愛着のある古里の土地を手放すか、それとも地権者が所有権を持ったまま土地を貸す「地上権」を設定するか―。正八幡(しょうはちまん)神社氏子総代の大須賀義幸(80)も自問自答を繰り返した。「どうするべきか…」。悩み抜いた末、地上権を設けた。先祖代々の土地を簡単には渡せないという覚悟の表れだった。
 人生のほとんどを古里・郡山地区で過ごしてきた。農家の家系で生まれ育ち、相馬農高(南相馬市)を卒業後、コメやタバコ、蚕などを手がけてきた。20歳を過ぎたころに兼業農家となった。東電の関連会社に勤め、福島第2原発建設の際の資材運びなどを担った。3人の子どもに恵まれ、穏やかな人生が終生続くと信じた。
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 原発事故で暮らしは一変した。全町避難で古里を追われ、川俣町や福島市など県内各地を転々とした。自宅は警戒区域となったが、「いつか必ず帰れる」と信じていた。ところが、政府は2012年3月に大熊、双葉、楢葉の3町に中間貯蔵施設を設置する考えを示し、協力を要請した。「もう戻れないのだろう」と感じ、2016年にいわき市に自宅を再建した。
 郡山地区の自宅や田んぼ、畑は先祖代々受け継がれてきた大切な場所だ。祖父や父らが生活を営み、自らも約60年を過ごしてきた。思い出は数え切れない。環境省との交渉では、地上権を設定して次世代に引き継ぐ意向を伝えた。住み慣れた自宅は6年ほど前に解体され、敷地に除染土壌が運び込まれた。
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 法律で定められた除染廃棄物の県外最終処分の期限である2045年3月まで21年余り。地上権設定の契約書には「返還の際、原状に復す」と示されている。ただ、大須賀は「元の状態にするだけではなく、子や孫が安心して帰れる地にしてほしい」と声を大にする。最終処分を実現し、帰還できるようになってもどれほどの住民が戻るかは見通せない。郡山地区の地権者からは「希望を持って生活できる場所にすべきだ」との声が上がる。
 「国は原発事故前よりもにぎわいを生み出し、その上で土地を返還する責任がある」。大須賀は強く訴える。(敬称略)


【霞む最終処分】(13)第2部「変わりゆく古里」 住民の思い伝承の場を 最終処分後整備求める
                            福島民報 2024/01/17
 東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設の用地となった福島県双葉町郡山地区の歴史を伝える冊子がある。「思い出写真集」と名付けられ、東日本大震災と原発事故発生前の地域の様子が記録されている。にぎわう郡山海岸、正八幡(しょうはちまん)神社で盆踊りを楽しむ人々…。約100枚の写真が掲載された。ページをめくると、地区内で暮らしてきた住民の息遣いが聞こえてくる。
 2023(令和5)年3月に完成し、地区の全世帯や町役場などに配られた。手に取った正八幡神社氏子総代の大須賀義幸(80)は「子や孫が冊子を見て歴史を語り継いでほしい」と期待を寄せる。
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 「地区の営みを後世に伝えなければならない。記念誌を作れないか」。冊子の作成は森秀樹(73)ら行政区の役員が中心となって発案した。5年ほど前に町職員に相談し、環境省の協力を受けて準備を進めた。県内外に避難している住民に連絡を取り、写真を提供してもらった。
 収集作業に奔走する中で、森はあらためて古里に思いをはせた。郡山地区で生まれ育ち、小高工高を卒業後、双葉地方広域消防本部の消防士として37年間、地域の安全安心を守ってきた。20代で地区内に自宅を建て、妻と子ども2人と穏やかな日々を過ごした。
 原発事故発生時は町の民生委員を務めていた。川俣町や埼玉県など県内外を転々とした。避難生活が長引く中で、中間貯蔵施設の建設も決まり、帰還するのは難しいと悟った。2014(平成26)年にいわき市に自宅を再建。古里の土地に愛着はあったが、「中間貯蔵施設ができることで、復興が進むのならやむを得ない」と悩んだ結果、手放すと決めた。
 2022年8月、避難指示が解除された町内の特定復興再生拠点区域(復興拠点)内にも居を構えた。郡山地区が見える場所だ。「やっぱり古里の空気は心地良いな」とほほ笑む。
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 法律で定められた除染廃棄物の県外最終処分の期限は2045年3月。自らが存命かどうかは定かではない。それでも、子や孫の世代が郡山地区で心豊かに暮らし、にぎわいを取り戻すためには国の施策が欠かせないと訴える。
 最終処分後の土地活用の行方も気がかりだ。中間貯蔵施設建設や最終処分に向けた取り組みを伝承できる施設の整備を求める。「将来、土地を提供した住民の苦悩や復興への願いが後世に伝わる地になってほしい」。冊子を見つめ、住民が再び強い絆で結ばれる古里の未来を思い描く。(敬称略)


【霞む最終処分】(14)第2部「変わりゆく古里」 生きた証し守る闘い 環境省の姿勢に嫌気
                            福島民報 2024/01/21
 「今でこそ、ぼろ家だけど古里に変わりはない。自分が生きてきた証しだ」。大熊、双葉両町の地権者有志でつくる「30年中間貯蔵施設地権者会」顧問の門馬幸治(69)=相馬市に避難=は、自宅の写真を見つめた。大熊町夫沢の生家は東京電力福島第1原発の敷地境界から200メートルほどしか離れていない。あるじなき母屋はイノシシに踏み荒らされ、松やツツジなどの庭木は見る影もない。
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 門馬は1954(昭和29)年、兼業農家の長男として生まれた。のちに福島第1原発が立地する場所には旧日本軍の飛行訓練場跡地があった。周辺を友人と駆け、山でキノコを採り、川で水浴びをした。
 昭和40年代に入ると大型トラックやダンプカーが連日、砂ぼこりを巻き上げ自宅近くを行き来した。何か大きな建物ができる―。少し後に原発と聞き、真っ先に「鉄腕アトム」が頭に浮かんだ。どこか近未来で、明るい希望を抱いた。
 高校卒業後、地元で公務員として働きながら父から譲り受けた土地を守ってきた。2人の子宝に恵まれ、何不自由ない暮らしが続いた。2011(平成23)年の東日本大震災と原発事故に襲われるまでは。
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 全町避難に伴い、会津若松市の仮設住宅に身を寄せた。この年の12月、政府は原発事故に伴う除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設を双葉郡に整備する意向を表明した。門馬は「自分の家も施設内に入るかもしれない」と胸騒ぎを覚えた。
 候補地は最終的に大熊、双葉の2町に絞り込まれ、予感は現実になった。環境省は2014年5~6月にかけて中間貯蔵施設に関する住民説明会を県内外で16回開いた。門馬は3回ほど足を運び、職員に「自分たちの土地はどうなる」「土地価格の補償内容は」などと質問をぶつけたが、「(補償は)十分に行います」などの回答にとどまった。専門用語ばかりを並べる説明に嫌気が差してきた。
 中間貯蔵施設の整備に反対するつもりはない。復興を進めるには、誰かが引き受けなければならないと理解している。ただ、住民に寄り添っているとは言いがたい環境省の姿勢に暗澹(あんたん)たる思いだけが残った。
 説明会後、同郷の男性が話しかけてきた。行政区長を経験した地域の顔役とも言える人物だった。「個人では国に言い負かされちまう。団結して話し合った方が良い」。それまで門馬には団体交渉という考えはなかったが、住民の権利を守る突破口に思えた。「やりましょう」とうなずいた。生きた証しを守るための闘いが始まった。(敬称略)