2024年4月5日金曜日

05- 【霞む最終処分】(15)~(18)

 福島民報が断続的に掲載している「霞む最終処分」シリーズのバックナンバーを4編ずつ掲載して行きます。
 今回は(15)~(18)を紹介します。
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【霞む最終処分】(15)第2部「変わりゆく古里」 地権者会で団体交渉 自分の土地取り戻す
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 大熊、双葉両町の地権者有志でつくる「30年中間貯蔵施設地権者会」顧問の門馬幸治(69)=相馬市に避難=は中間貯蔵施設の整備に関する住民説明会で、環境省の具体性に欠ける説明に不信感を覚えた。2014(平成26)年12月15日、大熊町は「苦渋の決断」ながら中間貯蔵施設の建設受け入れ容認を表明した。その2日後、住民が団結して条件に関する交渉を進めるため地権者会が発足し、門馬は初代会長に就いた。
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 地権者会は「除染廃棄物の30年以内の県外最終処分」「東京電力福島第1原発事故前の基準での土地価格の算出」など5項目の実現を目指し、活動を続けている。団体交渉は、これまでに40回以上を数える。中間貯蔵施設の在り方を考えるシンポジウム、法律や土地の専門家を交えた勉強会なども開いてきた。発足時は37人だった会員は、今では約100人となった。
 国は当初、中間貯蔵施設の用地約1600ヘクタールを全て買い上げ国有化する方針だったが、土地を手放したくないとの声を受け、所有権を住民に残したまま使用する「地上権」を設けた。土地価格について、環境省は「将来的な地価回復の状況を見据え、不動産鑑定士らが算定し適正に決めている」としている。だが、門馬は原発事故前の常磐自動車道整備時の5分の1程度の価格で、地上権賃借料はさらに低いのが実態だとして、「十分な補償とは言えない」と憤る。
 門馬から地権者会の2代目会長を引き継いだ大熊町の門馬好春(66)=東京都に避難=は「現状では地権者を蚊帳の外にした補償だ。国は『自分の土地に中間貯蔵施設を置け』と言われた人の思いをくみ取るべきだ」と指摘する。
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 門馬幸治は大熊町夫沢の自宅敷地約2ヘクタールのうち、1・2ヘクタール余は国に売却した。残りの宅地や田んぼなどは地上権を設定している。法律に基づき2045年に返還された場合、自身は90歳を超える。それでも全てを売らなかったのには理由がある。「必ず大熊に帰り、ここで農業をする」という強い信念を表すためだ。子どもたちにも、その思いを伝え続けている。
 国と交わした地上権の契約書には「土地を原状に復した上で、返還する」と明記されている。原状回復の大前提である除染廃棄物の県外搬出に必要な最終処分場の選定は、白紙のままだ。政府が福島第1原発の処理水海洋放出を決定した際、門馬は「漁業者の理解が得られていない中での強行は約束と違う」と受け止めた。県外最終処分は法に定められているものの、同様に反故(ほご)にされ古里が最終処分地になるのではないかとの疑念が消えない。
 「処分場が簡単に決まらないのは分かっている。でも、自分の土地を取り戻したいんだ」。霧中の行く末に光を差すため、諦めることはできない。(敬称略)


【霞む最終処分】(16)第2部「変わりゆく古里」 国の計画早期に提示を 「古里」の行く末注視
                            福島民報 2024/01/23
 東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設(福島県大熊町、双葉町)の敷地内にある自宅への帰還を断念した住民がいる。双葉町新山地区に住んでいた勝山広幸(55)もその一人だ。たとえ国が法律で定めた2045年3月までに除染廃棄物の県外最終処分が完了したとしても、「元の暮らしを取り戻した」未来は描けなかった。避難先に自宅を再建し、慣れ親しんだ町とは離れた場所から最終処分の行く末を注視する。
 浪江町で生まれ育ち、結婚を機に26歳で新山地区に土地を借り、家を建てた。子ども3人に恵まれた。妻の父が経営する双葉町の建設会社「勝山工業」で働き、公共工事や福島第1原発構内の工事などに携わってきた。32歳の時に社長に就任した。双葉に住み続けるはずだった暮らしは、原発事故で様変わりした。
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 全町避難により川俣町や埼玉県加須市の避難所に身を寄せた。原発事故発生の約1カ月後から東日本大震災で被災した家屋の補修などを手がけた。避難先に家族を残し、いわき市のアパートなどに暮らしながら、防護服姿で作業に当たった。会社も市内に仮事務所を置いた。
 2015(平成27)年1月に双葉町が中間貯蔵施設の建設受け入れを決めた。自宅も用地に含まれた。「もう住むのは無理だ」と感じた。30年に及ぶ事業であるため、完了時には高齢になっている。生活環境やコミュニティーの再生には多くの時間を要する。やむを得ず帰るのを諦め、6年ほど前に加須市に自宅を再建した。双葉の家は土地を地権者に返還し、2022(令和4)年に解体された。
 会社は2021年に双葉町で事業を再開し、新たな事務所を設けた。浪江町にも生活拠点を置き、2週間に1回ほど、家族が待つ加須市に帰る。
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 仕事などで毎日のように双葉町の国道6号を通る。道路脇に広がる中間貯蔵施設の敷地が目に入ってくる。自らも暮らし、住民の穏やかな営みがあった地域が姿を変えていくことに戸惑いを覚える。
 若い頃から20年近く暮らした「第二の古里」の未来はいったいどうなるのか、気にかかる。現時点で最終処分の場所は決まっておらず、除染土壌の再生利用も見通せない。「国は今後の具体的な計画を早期に公表し、住民を安心させてほしい」と訴える。
 双葉で過ごした穏やかな日常が脳裏に浮かぶ。「帰らないと決断した人の思いも受け止め、最終処分を成し遂げることが国の責任だ」(敬称略) =第2部「変わりゆく古里」は終わります=


【霞む最終処分】(17)第3部「決断の舞台裏」 「役所的発想」に憤慨 建設交渉、官邸主導へ
                            福島民報 2024/02/06
 2011(平成23)年6月9日、環境省の事務方トップである環境事務次官・南川秀樹が突如、福島県庁を訪れた。東京電力福島第1原発事故に伴う除染の本格的な実施を見据え、放射性物質が付着した廃棄物などの最終処分場を県内に建設したいとの考えを伝えるためだった。
 「福島県以外に建設場所は考えられない」。南川の申し出に、知事・佐藤雄平は「県として受け入れられない」と拒否し、怒りをぶちまけた。県にとって青天の霹靂(へきれき)だった「最終処分場構想」は、政府の意向ではなかった。
 南川は「環境省内で平時の原則論に従って議論した。『役所的な発想』だった」と内情を語る。
 環境省は家庭や企業、さらには被災地から出る廃棄物を担当している。廃棄物処理法は放射性物質による汚染を想定しておらず、原子炉等規制法も原子力施設敷地外で発生した放射性廃棄物の扱いを示していない。南川は原発事故の発生当初を振り返り、「最初は放射性物質という特殊性は深く考えていなかった」と明かす。
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 処分方法が定まっていない原発敷地外の放射性廃棄物をどう扱うか―。南川は官邸の指示を受けて環境省幹部らと協議し、省内で対応すると決めた。まずは処理方針などを盛り込んだ放射性物質汚染対処特別措置法の制定に動いた。法案の作成過程で検討したのが「除染などで集めたものを最終的にどこへ持っていくか」だった。
 南川は「それぞれの県に処理を求めなければ、収拾がつかない」と考えていた。家庭ごみなどは発生地域内または近傍で処理するのが原則となっている。福島県や近隣県の事務担当者らに相談したが、福島県からは明確な返事を得られなかった。「責任者同士が会わなければ決められないだろう」。南川は官邸の承諾を得ないまま現地に向かった。知事への直談判が狙いだった。
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 南川の最終処分場に関する発言は官邸中枢に衝撃を与えた。内閣で官房副長官を務めていた福山哲郎は「政府内で議論もしていないのに、なぜだ…」と憤慨した。原発事故で甚大な被害を受けている県民に最終処分場建設を突き付ければ、さらなる苦しみを強いることになる。「不安を抱える福島の皆さんの心中を察したら、とんでもないことだ」と配慮を欠いた発言だったと受け止めた。
 だが、県民の安全・安心な生活空間を取り戻すためには、除染で生じる土壌をどこかに集約しなければならなかった。すぐに県外へ搬出できる状況ではなく、県内に一時保管する「中間貯蔵施設」にすべきとの案が浮上した。実現に向けては、県や市町村との調整が不可欠だった。「今の環境省が何を言っても説得力がない」。環境省の独断から一転、福山らは官邸主導で中間貯蔵施設建設に向けた県との交渉に動き出した。(肩書は当時、敬称略)
 東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設の整備に携わった政府や県、立地町の政治家らは、除染廃棄物の最終処分をどう見据えているのか。それぞれの見解に迫る。


【霞む最終処分】(18) 第3部 決断の舞台裏 中間貯蔵 根拠なき期間 「30年」あくまで目標
                            福島民報 2024/02/07
 2011(平成23)年8月27日、首相の菅直人は福島県庁で知事・佐藤雄平に頭を下げた。「国として福島県内で生じた汚染物質を適切に管理、保管する中間貯蔵施設を県内に整備することをお願いせざるを得ない」。東京電力福島第1原発事故に伴う除染で出た土壌を一時保管する中間貯蔵施設の県内設置を要請した。
 原発事故で飛散した放射性物質により県内は広範囲で空間放射線量が事故前よりも上がっていた。政府は線量を下げるための除染の本格化を見据え、県内各地で大量に発生する除染土壌を集約し、安全に保管できる場所を必要としていた。
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 官房副長官の福山哲郎は県への要請に先立ち、中間貯蔵施設の整備を県に受け入れてもらうため水面下で調整に動いた。県からは「中間貯蔵」の保証となる福島県外への搬出期限を示すよう求められた。
 福山は「最終的に県外に持ち出すとの前提がなければ、話が全く先に進まない」と肌で感じた。環境省が2011年6月に示した「県内への最終処分場建設構想」に対する県民の拒否感は想像以上に根強く、県側の理解を得るには県外最終処分の約束が不可欠だった。ただ、除染土壌の一時保管の期限を示そうにも、過去に類似する事例がなく、明確な判断材料はなかった。
 福山は県幹部らと議論を重ねた末、「30年以内に県外で最終処分」との結論を導き出した。「あまりに短い期間では無責任になる。長過ぎても福島県民は受け入れ難い。その間を取る難しい判断だった」と回顧する。「少なくとも廃炉の完了よりも早く、福島県から土壌を搬出する」との目標の意味合いが強かった。根拠に乏しいものの、後に法律で明文化した。
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 「30年」を実現するため、環境省は中間貯蔵施設整備の検討と並行し、県外で最終処分する方法の議論も始めた。県内各地の除染で出る土壌の量は膨大になると想定され、全てを県外に運び出すのは現実的ではなかった。菅内閣で原発事故担当相を務め、続く野田内閣で環境相を引き継いだ細野豪志は「中間貯蔵施設に集めた土壌を県外で最終処分するため、県内外で再生利用を進めるべきだ」と主張した。放射性物質濃度が比較的低い土壌を公共工事などで使えば、最終処分量を相当程度減らせるとの算段だった。
 中間貯蔵施設は県と大熊、双葉両町の受け入れ容認を経て整備され、2015年3月に除染土壌などの搬入が始まった。2023(令和5)年末時点で運び込まれたのは約1375万立方メートル。東京ドーム11個が満杯になる量だ。環境省は、このうち4分の3は放射性物質濃度が比較的低く再生利用できるとしている。だが、実現に向けた県外での実証事業は住民の反発で頓挫したままだ。
 細野は「再生利用は福島の復興のために絶対に乗り越えなければならない壁だ」と訴え、政府の責任で進める必要があると指摘する。「当初から携わってきた自分は当事者だ。結果を出すため最後まで関わり続けなければならない」と自らに言い聞かせた。(肩書は当時、敬称略)