2022年4月25日月曜日

福島第一原発事故後の悲劇の現場を11年間記録し続けた片山夏子記者

 ハンギョレ新聞が、『最前線の人々 福島原発作業員の9年間の災害復旧記録』を著わした東京新聞記者片山夏子氏を取り上げました。
 それは福島原発事故の直後から9年間、福島原発作業員の発言などを大学ノート179冊に書きとめたものを出版したのでした。片山さんは忘れてはならないという信念で詳しく調べ、聞き取り、記録していった結果、事故が発生して8年目になる年に血を吐き、咽喉がんの診断を受けまし。現場に滞在した時間が長くて大量に被爆したためと思われます。
 片山記者はいまも福島に対する記者的関心を持ち続けこれまでの11年で取材ノートは220冊を超えました。
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[レビュー]福島第一原発事故後の悲劇の現場を記録する
                         ハンギョレ新聞 2022/4/24
 東京新聞記者が9年間記録した 原発災害復旧に取り組む人々 「絶対安全」の信頼が崩れた場所で 被ばくしながら事態を収拾する「無名の人々」
『最前線の人々 福島原発作業員の9年間の災害復旧記録』(日本語原題:『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』)片山夏子著、イ・オンスク訳、青い森刊

 私たちはすでに福島を忘れている。11年前のあの時を覚えている人はあまりいない。尹錫悦(ユン・ソクヨル)新政権の引き継ぎ委員会が韓国の原発18基の寿命延長を発表しても、反応は鈍い。反対や反発の世論は大きく見当たらない。遠くにあるように感じられる生命と環境よりも、目の前にある金の方が大きく貴重で重要だとされるばかりで、貪欲は恐怖すらも飲み込んでいっている。

 片山夏子記者が9年間書き下ろした大学ノート179冊を想像してみる。ぼろぼろのノートの中には9年間の血と汗、涙だけでなく、痛みと怒り、悲しみも込められているだろう。福島、原発、作業者、汚染水、炉心溶融、防護装備、被ばく、危険、下請け会社といった聞き慣れない単語の間で、災害、犠牲、苦痛、挫折、執念、希望、悲しみなどが頭をもたげ、叫び、うめきを上げる幻聴の中で気が遠くなる。

 東京新聞社会部の片山記者は、2011年3月の東日本大震災以後、福島を取材し、2019年まで真実を暴いていった。大学ノート179冊がその奮闘を記録している。この記録に基づいて書かれた『最前線の人々』(日本語原題『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』)は、片山記者が9年の間に福島で出会った「最前線の人々」を「小文字」で書く。同書の解説を書いたフリージャーナリストの青木理氏は、新聞をはじめジャーナリズムの世界に飛び交う『大文字』の情報に対比し、そこからこぼれ落ちる無名の人々の声を取り上げたことから、この本を「小文字を集めたルポルタージュ」と意味づけている

 まさにこの本は「小文字」たちの宝庫だ。華やかではないが、淡々としているからこそ真実に満ちた生々しい記録。9年の記録が9つの章で構成されているが、6ページに及ぶ目次を拾い読みしてみる。すでに1冊を読んだ気分だ。「全面マスク内は汗との闘い」「冬前には故郷へ…」「現場の情報、ちゃんと教えて」「『戦って』息子が後押し」「高線量恐れず2号機格納容器に穴あけ」「ここで生きていこう」「廃炉まで働きたいけど…」「無駄な視察なら来るな」「事故直後と何も変わらず」「事故からまだ3年、『忘れられるのが一番怖い』」「死亡事故起きたのに」「結局、使い捨てなのか」…。

 16歳の高校生の時にアルバイトを始め、原発関連の仕事をしてきたセイさん(55・仮名)。原発事故の3日後に家族と避難し、4カ月後、故郷の福島に戻った。彼は原発を絶対的に安全な場所だと信じていた。40年間原発の仕事をしてきたのもそのためだ。堅固な「五重の壁」が放射性物質を阻止するという彼の固い信念はしかし、粉々に砕かれた。彼は片山記者にこう語った。「チェルノブイリ事故の時も、米国のスリーマイル島事故の時も、よその国のことだと思って何の対策もしていなかった。政府と電力会社の傲慢が生んだ結果だ。絶対に安全だと信じていたので裏切らた気持ち」。彼は「被ばくを冒して格納容器に穴をあける」技術者だ。危険だが、誰かがやらなければという思いで。

 補償金は避難民を苦しめた。周囲の厳しい視線。例えば「もう働かなくてもいいね」などの言葉。バラバラになって避難地を転々としてきた家族にとっては耐え難い、しかし吐き出すこともできない苦痛を、片山記者は聞きとって記録した。彼らは他の地域でいじめにあい、子どもたちは学校や保育園で避難民ということで「汚染物質」という視線にとらわれた。親たちはできるだけ地味な服を着せ、目立たないようにまでした。崩壊する家庭も多く、離婚や別居が増え、高齢者は家族と離れて暮らすなかで自ら命を絶つケースもあった。

 放射線が充満しロボットさえ作動できない現場で、被ばく量の限界を超えて働く労働者の姿は、多くのことを考えさせる。彼らはなぜそこでそのように働くのか。お金のためだろうか。現場でぶつからなければ、彼らの本心はなかなか分からない。片山記者が淡々と伝える彼らの言葉をたどっていくと、前代未聞の災害に直面した人間の複雑な内面に向き合う。崖っぷちに立たされた状況で、人間は極限の挫折を克服する希望の遺伝子でも持っているのだろうか。自分の力で故郷を取り戻し、子どもたちが安心して暮らせるようにしたいという、ある意味、向こう見ずの勇気だ。その裏には、社会の一員として「私たちがやらなければ誰がやるのか」という責任感も重く占めている

 2011年7月、福島第一原発で4カ月間働いたある作業員(56)は翌年、膀胱と大腸、胃に相次いでがんが見つかった。転移したのではなく、それぞれ発病したのだ。しかし、労災は認定されなかった。被ばくからがん発症までの期間が短く、因果関係があるとは考えにくいということだった。彼は福島に行きたくて行ったのではなく、解雇されないために行った。被ばくより解雇の方が怖かったが、今は後悔しているという。7~8段階まで至ることもある下請け構造で、労働者らは手当てもまともに支給されず、無理な作業要求に苦しみながら福島惨事に立ち向かってきた。

 どんなにとてつもない事件でも、時間が経ば忘れられてゆく。しかし、忘れてはならないという信念で詳しく調べ、聞き取り、記録していった片山記者も、福島第一原発事故が発生して8年目になる年に血を吐き、咽喉がんの診断を受けた。長年の取材期間に親しくなった作業員たちは、心配して尋ねたという。「どうして私たちより先にがんにかかったんですか」。すでに病気で苦しんでいるある作業員は「閉まる扉があれば開くドアもある」と慰めた。片山記者はいまも福島に対する記者的関心を持ち続けている。これまでの11年で、取材ノートは220冊を超えた。
        キム・ジンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)