ロシア軍兵士がチョルノービリ(チェルノブイリ)原発の研究所から133個の放射性物質を盗み出したことや同原発近傍の放射能汚染が深刻な「赤い森」といわれるところに塹壕を掘ったロシア兵が深刻な健康被害を引き起こしたということが伝わっています。
⇒(4月11日)ロシア兵が原発の研究所から放射性物質を盗む
同原発は1986年4月に世界初の過酷事故を起こしましたが、その後は大きな事故を起こさずに36年が経ったので、放射能の危険性について知らない兵士もいたように思われます。
テレビ朝日が「ロシア軍が使用済み核燃料にも接近」したことを報じました。幸いに入室が機械的に阻止されたため大事にいたらなかったようですが。
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“ロシア軍が使用済み核燃料にも接近”原発占領時の証言
テレビ朝日系(ANN) 2022/4/9
ロシア軍が占領していたチョルノービリ(チェルノブイリ)原発
ロシア兵たちが行った、大事故に繋がりかねない行動とは。
また、撤退前に職員たちに強要した事とは。
(地元メディア記者):『「チョルノービリ」の標識前に安心して立てるのは、この取材の一番重要なことです。ロシア軍のゴミは残っていますが…』
1カ月以上に及ぶロシア軍の占領から解放された、チョルノービリ(チェルノブイリ)原発。
ロシア軍の拠点だった場所や、原発施設の内部に地元メディアのカメラが入りました。
(地元メディア記者):『うれしいことにチョルノービリ原発には、ロシア国旗ではなく、ウクライナ国旗が掲げられています』
36年前の放射能汚染事故の影響が最も深刻な「赤い森」と呼ばれる区域。
ここでロシア軍が塹壕を掘っていた、との情報がありましたが、実際は…
(地元メディア記者):『少しでもチョルノービリの歴史を知っている人には信じられないと思いますが、ロシア軍はここに住んでいました。ドローンの映像通り、どれだけ掘ったかがわかります』
米メディア・CNNが線量計を使ってみると、通常の50倍ほどの放射線量が測定されました。
(地元メディア記者):『4月5日、チョルノービリの施設です。 カメラが入るのは初めてのようです』
原発の施設内部では、技術者が、当時体験した数々の恐怖を語りました。
(チョルノービリ原発の技術者):『ここは、ロシア軍が捕虜を閉じ込めていた場所です』
その後、ロシア兵たちは大事故に繋がりかねない行動に出たと言います。
(チョルノービリ原発の技術者):『ロシア軍は使用済み核燃料貯蔵施設に入ろうとしました』
最も危険なエリアである「使用済み核燃料」がある場所に入ろうとしたというロシア兵たち。
Qどうやって侵入を防いだ?
(チョルノービリ原発の技術者):『ウクライナ兵の1人を連れていって、彼の許可証で入ろうとしましたが、自動制御システムが作動しました』
ロシア軍の撤退前には、「原発の返却」を証明する書類に署名するよう、強要されたといいます。
(チョルノービリ原発の技術者):『銃を持った2人が来て、「署名するか、(ロシア軍と)一緒に来るかだ」といいました』
署名をすると、直後に始まったのがロシア兵による略奪行為でした。
(チョルノービリ原発の技術者):『署名後に略奪することで、原発職員が略奪したように見せたかったのでは』
撤退後には、ロシア軍が設置したとみられる手作りの案内標識が残されていました。
『笑ってしまいますが、ロシア軍は看板に「ベラルーシ」と書こうとして3つも間違っています』
また、ゼレンスキー大統領が「ブチャより悲惨」と表現した町、ボロディアンカ。
いまだに被害の全容が見えない中、一歩間違えればロシア兵に銃殺されていたかもしれない住民もいました。
(ボロディアンカの住民):『ロシア兵は地下でアルコールを見つけて、私を呼び、車に積むよう指示した。そのうちの一人「セリョージャ」は私を殺したがっていた』
Qなぜそう思う?
『彼は私の顔に銃口を向け、引き金に指を置いたからです』
チェルニヒウでは5人の男性が1カ月以上も人質になっていたと言います。
(33日間人質になっていた住民):『車から降ろされ、手を縛られ、発砲された。そして車に投げ込まれ、ここに運ばれてきた。「お前たちは特に必要でもないので、捕虜交換があるのを楽しみにしていろ、なければ射殺する」って』
閉じ込められていたコンテナに、工具で切れ目を入れて穴を開け、脱出したと言います。
人道回廊も機能していなかったチェルニヒウ。
戦火の中、命懸けで負傷者たちを救出していたボランティアもいました。
(負傷者を救出していたボランティア):『街の地図を見て歩道橋を使えば避難は可能だと思った。23日までに無事に200人を避難させた』
キーウの病院には、救出された住民たちが入院していました。
(救出された住民):『遺体が非常に多く、負傷者は砲撃の中で救急車にピックアップされていた』
チェルニヒウには、1カ月間、小さな命を守り続けた産科病院もありました。
(病院スタッフ):『防空壕の中で1日7、8回の出産があり、帝王切開の場合もありました』
この病院では戦争が始まってから、134人の赤ちゃんが生まれたといいます。
(地元メディア記者):『「準備が整っていたのは戦争が起こると思っていたから?」と院長に聞いたところ、18歳の頃、アフガニスタンの戦争に行かされ、戦争のことや医療のやり方を覚えた、と答えていました』
そして、首都キーウでは、避難先から自宅に戻ろうとする人たちの車で渋滞が起きていました。
(キーウに戻る予定の住民):『(ロシア)軍は少し後退したし、仕事もあるので戻る判断をした』
キーウの市長は帰還を待つよう呼びかけていますが、地下鉄や飲食店も再開し始めています。
そのキーウに8日、EU=ヨーロッパ連合のトップが訪れ、ゼレンスキー大統領と会談。
ウクライナのEU加盟に向け、通常なら数年かかる手続きを数週間で完了できるという見通しを示しました。