2022年7月4日月曜日

原発事故に国の責任はないのか…最高裁判決に対する「大きな違和感」

 最高裁6月17日、被災住民らが原発事故損害賠償を求めた4件の集団訴訟について一括して国の賠償責任を認めないとする判決を言い渡したことに対し、堀有伸氏が 大きな違和感があるとする記事を出しました。

 堀氏は判決が、2002年に政府機関が公表した予測に基づいて東電に対策を実施させても、実際にはその想定を超えた津波が襲来したので同様の事故が起きた筈だとして、国が指導を怠ったことにはならいと国を免責したことについて、国による指導の根拠を「長期評価」だけに限定する理由が不明である点と、同様の事故に至った筈という具体的な検証がされていない点を指摘しています。
 いずれにしてもこの最高裁の判決には、多くの人たちが納得できないものでした。

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原発事故に国の責任はないのか…最高裁判決に対する「大きな違和感」 都合が悪くなると国は切り捨てる…
                      堀 有伸 現代ビジネス 2022.07.03
                      精神科医 ほりメンタルクリニック院長
2022年6月17日、被災した住民らが原発事故についての損害賠償を求めた4件の集団訴訟に対して、最高裁は国の賠償責任を認めないとする判決を言い渡した。筆者は、これが問題の大きい判決だったと考える。
最高裁が原告の訴えを退けたロジックは、次のようなものである。2002年に政府の機関が公表した予測では、福島第一原発には15.7mの津波が到達する危険性が指摘されていた。東京電力はそれへの対応を先延ばしした。そして、対策が十分に実施される前に東日本大震災が発生し、原発事故が起きた。
今回の裁判では、そのような状況について、国が東京電力を十分に指導する義務を怠っていたとするのが原告側の指摘だった。最高裁はこれに対して、もし国が長期評価による試算に基づいて東京電力に対策を取らせていたとしても、実際に発生した津波は予想よりも規模が大きかった。したがって、対策を講じても事故が起きた可能性がある。それ故、結果が同じなので、国が指導を怠ったことについての責任はないという内容の回答を行った。

正直、このロジックには違和感がある。論点は二つある。指導の根拠を「長期評価」だけに限定する理由はどこにあるのだろうか、という点が一つ目である。「長期評価に従って対策を講じても、事故は防げなかった」という最高裁の主張は、どれほど厳密な検証を経た上でなされたものなのだろうか、という疑問が二つ目である。
この二点について論じるのは門外漢には困難で、専門家の議論に委ねる他はない。ただ一つだけ指摘しておきたいのは、東北電力が管理していた女川原発の事例である。東北電力は独自の社内調査で869年や1611年に起きた津波の記録を参考に発電所の敷地のあるべき高さを求め、それは2002年の長期評価よりも高いものだった。結局2011年の津波の際にも、女川原発の被害は軽微であり、大きな事故が起きることはなかった。

今回の判決の問題点
今回の判決の問題点は、政府からの原子力発電を行う電気事業者へのガバナンスが、低い水準でしか達成されていなかった事態を肯定してしまった点にある。つまり、もし今後原子力発電が日本で再開された場合にも、事故が起きるか否かについての政府からの規制によるリスクの低減効果を十分には期待できず、電気事業者の自発的な努力に委ねられる部分が極めて大きくなることを意味している。

私は2018年2月に「原発事故から7年、不都合な現実を認めない人々の『根深い病理』」という小文を現代ビジネスに投稿した。その中で、「国会事故調査報告書」(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会による)の一部を引用し、規制当局から東京電力への適切なガバナンスが失われていたことを指摘する内容を紹介した。改めて引用すると次のようになる。
「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になったりすることをリスクとして捉えていたことを意味する」
「事業者のみではなく、それを規制する側である保安院も、『既設炉への影響がない』ということを大前提として、事業者とシビアアクシデント規制化の落としどころを模索していたことがうかがえる」

国会の名のついている報告書において、このような国の規制当局と東京電力との関係性が問題だと指摘されていたのにもかかわらず、今回の最高裁の判決で、そのことが十分に顧みられていないのは、適切な事態なのだろうか。
考えたくない不安なのだが、最高裁が国の意向を忖度したということはないのだろうか。原発事故に関する賠償金の額は、すでに国が想定した額を上回っているという意見もある。

最も反省されるべきこと
東京電力の置かれた立場についても、想像をめぐらせてしまう。「国策だと、国におだてられながら難しい事業に取り組んだ。しかし本当に都合が悪くなると、国に切り捨てられて、『お前だけが責任を取れ』と言われる」という不信感が生じ、モチベーションの低下が起きてしまうということはないのだろうか。
そうすると、現在も進行中の「廃炉」の作業はどうなるだろう。基本的に「廃炉」は利益を生む事業ではない。しかし数十年はかかると予想されるその事業を、「営利活動」が本質である民間企業を主体に実施させ、しかもその民間企業への国からのガバナンスに不安があるという状況は、望ましいものとは考え難い。廃炉については、国主体の別の事業者を立ち上げるべきではないかという疑問を抱いている。
こうなってくると「国策民営」という事業のあり方の問題点も考える必要が生じてくる。「あれだけの事故が起きてもなぜ日本は『原発輸出』を続けるのか」という記事の中では、1937年に国会に提出され大論争を巻き起こした「電力国家管理法案」に関する主張の一部を紹介した。要約すると、国策民営とすることで、国の直轄事業とするよりもコストが削減できるという内容である。しかしその代償として、適切なガバナンスの消失による事故の発生確率の上昇という問題が生じるのならば、国策民営という選択肢の正当性に疑念を抱かざるをえない。

2011年に起きた原発事故において最も反省されるべきだったのは、国(規制当局)による民間事業者への適切なガバナンスの欠如だったと筆者は考えている。この事故について適切に反省し、今後の日本社会を良い方向に変えるために活かそうとするのならば、「必要かつ十分なガバナンスの再建」がいかになされるのかを考えるべきである。その意味で、今回の最高裁の判決は不十分であり、遺憾の意を表せざるをえない。