東京地裁(朝倉佳秀裁判長)が13日、旧経営陣5人に対し22兆円を賠償するよう求めた東電の株主訴訟で、元経営陣4人に対して合わせて13兆3000億円余りの賠償を命じる判決をに言い渡した件に関して、ジャーナリストの岸井雄作氏が「民事と刑事で分かれる司法判断...問われる東電と国の責任分担のあり方」という記事を出しました。
判決からやや日が経っているので多分判決要旨を熟読したのでしょう、判決のポイントが分かりやすく記述されているうえに、それを巡る大手メディア紙の評論が、判決批判側=原発賛成派の産経、読売、日経と、判決評価側=原発批判派の毎日、東京、朝日を対比する形で紹介されています。
そして読売と産経が「砂川裁判」で一躍有名になった「統治行為論」(高度に政治的な案件については司法はなじまない)に言及していることにも触れていますが、原発は決して高度に政治的な問題として司法が回避するような問題ではありません。
それにしても担当した東京地裁の朝倉佳秀判事が衆目の一致する超エリートであったとは驚きで、余程勇気のある判事と思われます。少なくとも資質的には現在の最高裁判事らと比較しても優りこそすれ劣らない人物なのでしょう。
⇒(7月24日)史上最高「13兆円」賠償命じた朝倉裁判官は超エリート判事
東京高裁でこの判決が維持されるのかどうかについて強い関心を持たざるを得ません。
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民事と刑事で分かれる司法判断...問われる東電と国の責任分担のあり方
岸井雄作 J-CAST 2022/7/25
ジャーナリスト
東京電力福島第一原子力発電所の事故をめぐる東電の株主代表訴訟で、勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長ら元役員4人に13兆3210億円の支払いを命じる判決が言い渡された。金額の大きさにも驚かされるが、事故の予見は可能だったと判断し、旧経営陣の過失を認める初の司法判断になった。
ただ、1か月前には、この事故で避難した住民らが国相手に起こした集団訴訟で、最高裁が事故を防ぐ時間がなかったとして国の賠償責任を否定する判断をしている。
大手紙の論調も、こうした経緯と原発へのスタンスの違いから、評価が真二つに割れた。
裁判の争点は「長期評価」への旧経営陣の対応
株主代表訴訟は、株主48人が事故によって東電が被った損害22兆円余り(被災者への損害賠償や廃炉、除染の費用など)を賠償するよう、旧経営陣5人に求めたもの。2022年7月13日に東京地裁(朝倉佳秀裁判長)は勝俣氏、武藤氏ら4人に計13兆円余りの支払いを命じた。
裁判の最大の争点は、2002年に年に政府の地震調査研究推進本部が公表した「長期評価」に対する旧経営陣の対応だった。原告は、巨大津波が第一原発を襲う可能性を旧経営陣は事前に認識していたにもかかわらず、安全対策を怠ったと主張。
判決は、この長期評価をもとに(1)東電子会社が2008年に津波予測を15.7メートルと計算していたこと (2)当時、原発部門の副本部長だった武藤氏がその妥当性の検討を土木学会に委ねて対策を講じなかったこと (3)勝俣氏らが09年2月に14メートル程度の津波の可能性の報告を受けていたことなどを指摘。主要な建屋や機器の浸水対策(水密化)をすれば事故は回避でき、その工事は2年ほどで完了できた――などとして、対策を怠ったと事故の因果関係を認めた。
これより約1か月前の6月17日、この原発事故で避難した住民らが起こした4件の集団訴訟で、最高裁は国の賠償責任を否定する判決を出した。2002年の「長期評価」に基づく巨大津波試算の合理性は認めたものの、予見可能性について明確な判断を避けたうえで、実際の地震は想定を大きく上回るもので、国が東電に対策を命じて防潮堤が設けられたとしても、津波による浸水は防げなかった――などとした。
これとは別に、勝俣元会長ら3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された刑事裁判では一審は無罪だった。「長期評価」について、複数の専門家のあいだで疑問が生じていたことから、信頼性を否定したものだ。「合理的な疑い」が残らない立証を求める刑事裁判は、民事裁判より立証のハードルが高いということだろう。
(ジャーナリストの伊藤詩織さんが元TBS記者の山口敬之氏に性暴力被害をうけたとして訴えた件で、刑事事件としては容疑不十分で不起訴になったが、民事では332万円の賠償を命じた判決が確定しているように、民事と刑事の「ねじれ」はよくあることだ)
「原発推進」VS「脱原発」割れる論調
今回の13兆円にのぼる賠償判決について、大手6紙は7月14、15日に一斉に社説(産経は「主張」)を掲載した。その論調を比べてみよう。
原発推進を社論とする読売新聞と産経新聞は地裁の判決を異例といえるほど批判する。
15日付の読売新聞は「最高裁は先月、避難住民らが国を訴えた4件の民事裁判で、津波の規模が想定より大きかったため、事故は防げなかったとする統一判断を示している。......地裁が最高裁と正反対の判断を示すということを、どう理解したら良いのか。......刑事裁判の1審で、事故は予見できなかったとして無罪になっている。刑事と民事は異なるとはいえ、この違いも分かりにくい」と指摘。
14日付の産経新聞は「またもや司法の大迷走だ」との見出しで、読売以上に強いトーン。「最高裁の判断に照らせば、旧経営陣が対策を講じていても事故は起きていたはずなので、株主側の主張とは正反対だ。それを認めた東京地裁の判決は最高裁の審理を無視したものとみられても仕方あるまい」とし、やはり刑事事件の一審無罪判決を挙げ、「刑事裁判と民事裁判の差があるにしても、同一地裁で津波被害の予見可能性について3年を経ずに逆の判断が示される事態は、迷走以外の何物でもあるまい。しかも個人の支払い能力を超越した天文学的な賠償額である。法廷の理性が疑われる」と今回の判決を、口を極めて『断罪』している。
同じ原発推進の立場でも、14日付の日本経済新聞はもっと『理性的』だ。「原発がひとたび重大な事故を起こせば、周辺住民の生命や環境だけでなく、広範な地域で深刻な被害をもたらす。それゆえ、稼働させる事業者の経営陣は安全性の確保にできる限りの注意を払わなければいけない。判決はこう断じている」と指摘したうえで、「この指摘は電力会社に限らないのではないか。人命や人々の暮らしに大きな影響を与えるインフラ企業や交通機関の経営幹部も真剣に受け止めてほしい」と、判決の意味を訴えている。
もちろん、それに続いて、最高裁判決や刑事裁判の1審無罪と判断が分かれたことも指摘するが、「引き続き法廷での審理を注視したい」と、冷静だ。
これらに対し、脱原発を主張する3紙は、判決を評価する。
15日付の毎日新聞は「判決は『原子力事業者の取締役として、安全意識や責任感が根本的に欠如していた』と厳しく批判した」、15日付の朝日新聞も「そろって取締役としての注意義務を怠り、地域と会社に甚大な被害を与えた」など、判決の基本認識を評価。東京新聞(15日付)は「今回の判決は、旧経営陣の過失を認めた初の司法判断で、賠償額としても過去最高になる。原発事故から約11年4か月。『後世に残る名判決』との声が上がるほど適切な判断だったと大いに評価する」と、最大級の表現で判決を評価した。
具体的な点についても、「旧経営陣は土木学会に検討を依頼するだけで対策を放置。判決は『対策の先送りで著しく不合理だ』と厳しく指弾した」(東京新聞)「主要施設の水密化措置をとっていれば防げた可能性があると述べた。事実を踏まえた説得力のある指摘だ。最高裁の判断は早晩見直されなければならない」(朝日新聞)
などと指摘している。
さらに毎日新聞は、「審理では、事故を巡る裁判で最も多くの証拠が提出された。裁判官が初めて福島第1原発を視察してもいる」
と書き、最高裁判決に反する判決の重みを指摘している。
読売と産経が主張する「統治行為論」
今回の株主代表訴訟の判決が、13兆円という巨額賠償を命じたこともあるが、「国策民営」といわれる国と電力会社の関係、責任分担のあり方も問われているという問題意識は、多くの社説が触れている。
朝日新聞は「3・11が明らかにしたのは、責任をあいまいにしてきた原発の『国策民営』の矛盾とほころびである」、毎日新聞も「原子力災害は事業者が損害を賠償する仕組みになっているが、過失の有無を問わないため、責任の所在が曖昧になる。......電力会社だけでなく、「国策民営」で原発を推進してきた国も、判決を重く受け止めなければならない」などと指摘した。
原発推進の日本経済新聞は「『国策民営』で進められてきた原子力政策を踏まえ、国の関与についてもあらためて議論する必要がある」と問題提起した。
読売新聞も「原発は国策で推進してきた。東電の責任は重いとはいえ、国の責任を棚上げし、4人の個人に全てを負わせることが妥当なのか」と書く。ただし、だからといって、もちろん、国の責任を否定した最高裁判決を批判するわけではない。
読売新聞や産経新聞はこれまでも、原発に批判的、懐疑的な判決が出るたびに、「またもや原子力発電が『司法リスク』にさらされた」(2022年6月20日付 産経新聞主張「泊原発の差し止め 科学的論理欠いた判決だ」)などと司法が原子力政策に『介入』することを批判。「高度で最新の科学的、技術的知見に基づいた行政側の審査結果を尊重する司法判断が、これまで積み重ねられてきた。今回の高裁決定は、こうした枠組みからはみ出すもの」(20年1月18日付 読売新聞社説「伊方差し止め 司法はどこまで判断するのか」)などという論法で、今回も、こうした流れでの判決批判を展開している。
両紙の主張は、統治行為論(高度の政治性ある事柄に関しては司法判断になじまない)に近い。福島第一原発事故という未曽有の被害を経験した今、読売新聞が主張するような「技術的知見に基づいた行政側の審査結果を尊重する」というような行政追認でいいのかが、問われていると考えるべきだろう。
下級審の判決の積み重ねが最高裁を動かして判例が変わるということはこれまでもあった。今回も、民主主義社会の司法の在り方を考えさせられる判決だったと言えそうだ。(ジャーナリスト 岸井雄作)