福島原発事故について国に責任はないとした最高裁判決について、『ルポ母子避難』、『その後の福島─原発事故後を生きる人々』、『原発避難白書』(共著)などの著書を持つフリーライターの吉田 千亜さんが、原告の無念な思いをレポートしました。
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原発事故での「国の責任」否定した最高裁
原告から批判の声「希望の光が見えなくなった」「司法は残酷」
弁護士ドットコム 2022/6/20
東京電力福島第一原発事故当時、福島県内や隣県に住んでいた住民らが、国や東京電力に対し、損害賠償や原状回復を求める4つの集団訴訟(生業(福島)、群馬、千葉、愛媛)の上告審判決が6月17日、最高裁第二小法廷で言い渡された。
最高裁が出した結論は、国の責任はないとし、国家賠償責任を否定するものだった。東電の賠償責任については2022年3月、最高裁第二小法廷が4件いずれについても東電の上告を退けている。
「生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」弁護団事務局長・馬奈木厳太郎弁護士は判決後、最高裁前での第一声で、「全く受け入れられない内容」と断じ、「判決を導いた判断の過程が、全く被害に向き合っていない」と力を込めた。
原告からは「納得できるわけがない。希望の光が見えなくなった」「子どもたちに『頑張ってもダメなのか』と思わせてしまうのではないか…」という怒りの声も上がった。(ライター・吉田千亜)
●反対意見は多重的な津波対策の必要性を指摘
判決は、事故以前における原子炉施設の津波対策について、「防潮堤等を設置することにより敷地への海水の浸入を防止すること」が基本だったと認定。
防潮堤等を設置するという措置が「原子炉施設の津波対策として不十分なものであったと解すべき事情はうかがわれない」とし、他の対策が講じられなければならなかったとはいえないと判断した。
防潮堤等を設置する以外の対策、たとえば原告らが訴えていた「施設の水密化措置」については、菅野博之裁判長が補足意見で、事故以前の段階では「確実な津波対策になり得るとの専門的知見が存在していたことはうかがわれない」などとして、「そのような措置が講じられるべきであったとか、講じられた蓋然性があるということは困難」と述べた。
一方、反対意見を述べた三浦守裁判官は、「その当時、国内及び国外の原子炉施設において、一定の水密化等の措置が講じられた実績があったことがうかがわれ(る)」と指摘。「津波により浸水する危険にも備えた多重的な防護について検討すべき状況にあった」とし、「水密化等の措置が講じられていれば、本件津波に対しても、本件非常用電源設備を防護する効果を十分にあげることができたと考えられる」と述べた。
なお、地裁や高裁段階で大きな争点となっていた「長期評価の信頼性や長期評価に基づく予見可能性」については、明確な判断を示さなかった。
●国の責任否定され「希望の光が見えなくなった」
群馬訴訟の丹治杉江さん(65)は、「裁判長の最初の言葉を聞いて、負けた、と思ったときに、そのあとの言葉は耳に入ってこなかった」と語った。
「納得できるわけがない。11年間、過酷な経験を引きずり、希望の光が見えなくなった。私たちは、力を合わせて、この不当さを訴えていきたい」(丹治さん)
生業訴訟で弁護団幹事長を務める南雲芳夫弁護士は、「最大の争点だった『国の規制のあり方はどうなっていたのか』ということに対し、最高裁が頰被りして役割を放棄した」と批判した。
また、馬奈木弁護士も「ボールは私たち社会の側にある。命や健康を最優先にする、それを『社会通念』にしなければ、教訓も責任も何もないまま、原発は続いてしまう」と怒りをこめた。
●共に歩んできた娘の言葉に衝撃
福島県南相馬市小高区から愛媛県に避難し、愛媛訴訟の原告である渡部寛志さん(43)は、「子どもたちの思いをくじかぬ司法判断であってほしい」と願い続けていた。
国の責任を否定した判決が出た翌日、渡部さんは、あらためて「残念だし、衝撃を受けたし、司法は残酷だな、と思った」と語った。
渡部さんは、家族4人で愛媛県に避難したが、妻と帰郷の時期をめぐり意見が合わず、離婚。長女の明歩さん(17)は震災後に生まれた長男と母親に引き取られて福島県須賀川市で暮らし、寛志さんは次女の明理さん(13)と愛媛県と南相馬市を行き来しながら農業を営んでいる。
寛志さんは、明歩さんが最高裁判決後の記者会見で「心が不安定な中頑張ってきて、最高裁で残念な結果になってしまって、私たちは何のために、自分の気持ちを押し殺して頑張ってきたのか。残念で悔しい」と発言したことが頭から離れないという。
「提訴時、娘たちは9歳と5歳だった。起きていることのすべてを知ってほしい、という思いがあって、裁判も含めて、いろいろなところに連れて行ったけれど、『自分の気持ちを押し殺して』と聞いて、つらい思いをさせていたのではないか、と、心が乱れました」(渡部さん)
今回の最高裁への入廷行進でも、横断幕を娘とともに持ち、入廷した。子どもを矢面に立たせている、と批判されたこともある。しかし、渡部さんは、子どもたちに大人が何をやっているのか、見てほしい思いがあった。
子どもたちも、判決には関心を持ち、裁判の際には熱心にメモを取ることもあった。自分たちのこととして捉え、「国が謝らないから、やめない」という娘の言葉も聞いたこともある。しかし、「自分の気持ちを押し殺して」と聞いた瞬間、涙が込み上げた。
「(国の責任が認められることで)原発事故の問題解決に向けて期待の持てる国になった、ということを子どもたちに見せたかった。でも、そうはならなかった。このまま終わってしまったら、『頑張ってもダメなのか』と思わせてしまうのではないか……と考えてしまう。想像もしなかった判決だった。私たちの思いが届いていなかったのか、と感じました」(渡部さん)
原発事故当時、6歳と2歳だった娘たちは成長し、夢を語るようにもなった。長女は臨床心理士に、次女は放射性物質の除去をテーマに研究する微生物学者になりたいという。それぞれ、原発事故で傷ついた人の心や原因物質に目を向けた「回復」への思いがあると渡部さんは感じている。
渡部さんは、愛媛訴訟の原告や避難者の仲間たちに、「愛媛に戻って、何を話そう」と悩む。それでも、「諦めてしまわずに、前に進んでいく、そんな姿をまた大人が見せなくてはならないかな」と語った。
吉田 千亜【筆者プロフィール】(よしだ ちあ)
フリーライター。福島第一原発事故後、被害者・避難者の取材を続ける。著書に『ルポ母子避難』(岩波新書)、『その後の福島──原発事故後を生きる人々』(人文書院)、『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)、共著『原発避難白書』(人文書院)。