2016年12月11日日曜日

11- 最高裁が画策する原発訴訟「完全封じ込め」策 (現代ビジネス) 

 『絶望の裁判所』(2014年)と最高裁の「闇」を描いた『黒い巨塔 最高裁判所』(2016年10月)の著書を持つ瀬木比呂志明大教授は、2012年に48歳で裁判官を依願退職しました。
 
 現代ビジネス・オンラインに掲載された同氏のインタビュー記事を10月28日に紹介しました
 10月28日 最高裁がひそかに進める原発訴訟『封じ込め工作』
 そのインタビュー記事は、 
 『・・・原発再稼働を推し進めたい勢力は、頻発する原発訴訟、そして、稼働中の原発の運転差止め判決、仮処分について大変苦慮しており、こうした現状を抜本的に解決する方策を検討している可能性もある。次回は、このお話を中心に、さらに詳しくうかがいたいと思います。(つづく)』
で終わっていましたが、続編が漸く掲載されました。
 約11,000字に及ぶ長い記事ですが分割せずに紹介します。最高裁が如何にして権力に迎合しようとしているかがよく分かります。
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 原発推進勢力が画策する、原発訴訟「完全封じ込め」のウルトラC!?
 元裁判官が明かす悲観的な未来 
 瀬木 比呂志 現代ビジネス 2016年12月9日
    (明治大学教授 元裁判官)          
     瀬木比呂志(せぎ・ひろし)プロフィール
    1954年生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。1979年以降、裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年、明治大学法科大学院専任教授に転身
  
 日本の奥の院ともいわれる最高裁判所の「闇」を描いた小説『黒い巨塔 最高裁判所』(瀬木比呂志著)が法曹界や霞ヶ関を震撼させている。
 本作では、自己承認と出世のラットレースの中で人生を翻弄されていく多数の司法エリートたちのリアルな人間模様が描かれているが、作品の中で描かれている原発訴訟の「封じ込め工作」が極めてリアルと評判を呼んでいるのだ。
 福島第一原発事故以後、稼働中の原発の運転を差し止める画期的な判決や仮処分が相次いでいるが、権力側は、このような状況に危機感を覚え、原発訴訟を完全に封じ込める仰天のウルトラCを検討している可能性があるという。
 原発訴訟をめぐって、今後どのようなことが起きるのか、起きる可能性があるのか、瀬木さんに話を聞いた。
 
画期的な判決はあくまで例外的
 ――前回のインタビュー(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50052)では、最高裁判所が、裁判官協議会などを通じて原発訴訟を電力会社に有利な方向へ強力に導こうとしている、また、操作的な人事や報復的な人事を行っているというお話をうかがいました。
 しかし、実際の訴訟を見ると、今年(2016)3月にも、大津地裁(山本善彦裁判長)が、滋賀県の住民が、関西電力高浜原子力発電所3、4号機の運転差し止めを求めた仮処分申請を認め、原発の運転を差し止める仮処分を出しています。今後の動きについては、どう思われますか?
 瀬木 その点についても、小説の中で1つのシミュレーションを提示していますが、現実には、大勢としては、厳しいのではないかと感じています。少なくとも、司法、政治、そして世論の状況が今のままだとすれば、そうですね。
 原発の稼働差止めを認めた判決、仮処分は、福島原発後についても、おそらく、いずれかといえばより例外的なものであって、今後は、国、電力会社寄りの判決が続く可能性のほうがより高いのではないかと思います。それも、地裁より高裁、高裁より最高裁で、そういえます。
 原発差止めによって日本の経済における既得権益層が失うものは大きく、また、この問題は、電力業界にとっては、ある意味、死活問題です。したがって、電力業界は、もてる限りの政治力を駆使して、原発差止めの裁判を阻止する方向で、水面下の活動を展開しているはずです。
 政治としても、強力な支持基盤である電力業界の要請は無視できません。
 また、福島第一原発事故後は原発の安全対策、危機管理に対して厳しい視線を向けていた世論も、最近は、「まあ、大丈夫だろう」といった方向に何となく流れてきている傾向が否定しにくいですね。原発や原発事故に関する書物を読み続け、事故の背景、日本の原発管理や原発行政の特殊性を詳しく理解している人は、それほど多くないというのが事実でしょう。
 電力業界が司法に直接働きかけるようなことはしないし、チャンネルもないでしょうけれども、政治や立法を通じて司法に強い圧力をかけようとはするでしょう。
 そして、残念ながら、日本の最高裁、ことに近年の最高裁には、政治と全面対決できるような気概をもった人間は、ことに幹部にはいません。むしろ、2000年ころ以降は、政治と密着してなりふり構わず自己の権益を確保しようとするような人々が増えています。
 もちろん、政治の司法に対する圧力は、あからさまに外部に示されることはないでしょう。それが明るみに出たら、ただでさえ急落している日本の司法への信頼はさらに失墜して、回復不能なダメージを被ることになる。それは、政治にとっても司法にとっても得策ではないですから。
 しかし、今後の原発訴訟を注意深く、かつ、長期間にわたってみてゆけば、何が水面下で行われているかは、推測できると思います。
 
露骨な人事
 ――現在、最高裁は原発訴訟をどのような方向に誘導しようとしているのでしょうか?
 瀬木 最高裁は、福島第一原発事故以降、司法研修所で、原発訴訟についての裁判官研究会を2回開催しています。近年は、「正々堂々」と最高裁の協議会で誘導することはせず、司法研修所で、正確な記録すら外部に出さないような「姑息なやり方」で裁判官を誘導している(笑)。
 こういうところ、つまり、統制が、外から見えにくい形でより陰湿に行われるようになっているのが、2000年ころ以降、「司法制度改革」以降の、裁判所の特徴ですね。
 1回目は、原発事故から約10ヵ月後の2012年1月です。事故の記憶が鮮明だったこと、何よりも、それまでの原発訴訟のあり方が世論に強く批判されていたことから、この研究会では電力会社寄りの露骨な誘導はなく、むしろ、世論の猛反発に、ある程度統制の手綱をゆるめるような方向を示していました
 要するに、風向きを見ていたのだと思います。
 しかし、これからさらに1年余り後の、2013年2月に行われた2回目の研究会では、強力に「国のエネルギー政策に司法が口をはさむべきではない。ことに仮処分については消極」という方向性を打ち出しています
 僕の入手している資料でも、シンポジウム形式のパネラー発言者である学者等の氏名が黒塗りされているのですが、名前を出したらその学者等の評価はたちまち地に墜ちるだろうと思われるような露骨な、国、電力会社寄りの誘導発言をしている人が大半なのです。本当に露骨です。裁判官たちの発言は限られ、また、パネラーらに迎合的なものが多いです。
 また、こうした誘導に加え、最高裁は、きわめて露骨な人事で、電力会社、原発推進に熱心な時の政権に迎合的な判決を出そうとしています
 高浜原発についての、樋口英明裁判長のもう一つの差止め仮処分(2015年4月、福井地裁)を取り消した決定(同年12月)に至っては、異動してきた3人の裁判官すべてが、最高裁事務総局勤務の経験者でした。
 これまでにも、最高裁は、内部の人間、それも最高裁の内情や権力の仕組みをよく知っているような人間にしかわからないようにカモフラージュした巧妙な人事や議論誘導で、裁判官や判決をコントロールし続けてきましたが、こと原発訴訟については、外部の人間でも一目でわかるようなストレートかつ乱暴な人事を強行しています。こうした人事の傾向は、実は、以前からもありました。
 あるいは政治から圧力を受けているのかもしれません。例によって、忠犬のごとく政治の意向を先読みしてそれに応えているのかもしれません。
 
最高裁が用意しているウルトラC? 
 ――今回の『黒い巨塔』が、瀬木さんの一連の著作と並んで、司法のそうした傾向に対する強力な歯止めとなり、今予測されたような流れを変える力になってほしいと強く思うのですが、いかがですか?
 瀬木 もちろん、少しでもその方向で貢献できればとは思います。
 しかし、執筆活動が現実に対してすぐに目立った影響を与えた例は、日本でも世界でも、僕の知る限り、ごく限られています。それが事実だと思います。
 僕は、著者にできることは、「種をまく」ことに尽きると思っています。それが芽を出すか、大きな樹木に育つかは、「神のみぞ知る」領域の事柄です。まさに、「ゴッド・オンリー・ノウズ」ですね。著者は、社会に対する影響としては、あまり大きなことや直接的なことを望むべきではないと思います。基本的には謙虚であるべきです。
 ――そうかもしれません。しかし、最高裁とその事務総局がどんなに用意周到に支配、統制を行っても、すべての裁判官を統制しきることは、難しいのではないでしょうか?
 現に、これまでにもお話に出たように、統制に服さない裁判官も出ています。ことに、根拠に乏しい原発安全神話があった時代ならまだしも、福島第一原発事故のような大事故が現実に起き、多くの人々が被災し、家を追われたわけですから。
 裁判官がみずから安全性を認めた原発が重大事故を起こしたら、歴史に汚名を残すことになると思うのです。私は、数は限られるとしても、「法の番人」と呼べるような裁判官の良心に期待したいのですが。
 瀬木 確かに、完全な統制は難しいでしょう。勇気ある裁判官も、ことにいわゆる最高裁系エリート層以外の人々には、いるかもしれません。
 しかし、『絶望の裁判所』や『ニッポンの裁判』で詳しく論じたとおり、最高裁は、2000年ころ以降、より強力な統制を、より陰湿なやり方で行うようになってきていますからね。
 どんどんひずみが大きくなり、国民の信頼は急速に失われてきているのに、最高裁は、そういうことすらわからないで、あるいは無視して、なりふり構わずやり続ける。でも、マスメディアはみてみぬふり、というか、そもそも状況が十分にみえていない。そして、構造的、客観的な批判を行いうるような人間はわずか、実際にやるのはさらにわずか、そういう現状ですからね。
 原発訴訟に関する動きについてさらにふれると、実は、現在のように、ことに民事訴訟では差止めが続く可能性があるという状況について、全面的に「打開」するウルトラCが検討されているという噂も、かなり以前からあるのです。
 ――今回のインタビューではそのことをぜひうかがいたかったのです。そんな方法が本当にあるんですか?
 瀬木 かなり以前から、法律専門家の間では議論されているのが、原発訴訟を専門に扱うような裁判所あるいは裁判所のセクションの設置です。
 こう言うと荒唐無稽のように感じられるかもしれませんが、知的財産権訴訟を専門に扱う裁判所が、アメリカの圧力等もあって、超特急でつくられたという実例も、存在しますよね。
 確かに、特許や意匠などの知的財産権訴訟は専門性が高いし、かなり特殊な考え方をしますから、経験の浅い裁判官ではなかなか対応しにくい。ある意味、実務上の必然性によって生まれたものという側面もあり、これはこれで理にかなっていると思います。
 ところが、知的財産権のように特殊なものとはいえない原発訴訟についても、それと同じように、原発訴訟を専門に扱う裁判所やセクションをつくればいいという発想が、かなり以前から出ているのです。
 
日本人の根強い「お上第一意識」
 ――原発に詳しい専門家でなければ適切な判断は難しい、という意見は、原発稼働を続けたい人々を中心に、昔から出ていますね。
 瀬木 「普通の裁判官は原発のことなどわからないから判断できない」というのは、僕は、実をいえば、暴論、俗論ではないかと思います。
 科学的な問題を扱う裁判などいくらでもあり、そんなことをいえば、公害訴訟も薬害訴訟も医療訴訟も建築訴訟もIT関係訴訟も、そういう専門的な分野の訴訟については、常に、「裁判官にはわからない」といわなければならなくなってしまいます。
 そうした訴訟と原発訴訟に本質的な差などありません。そこは、きわめて特殊なものである知的財産権訴訟の場合とは違います。
 知的財産権訴訟というのは、本当に特殊で、実をいうと、弁護士や裁判官でも、判例を読んでも、経験がないと、何が書かれているのかよくわからないというのが事実なのです。
 根っからの文化系がより多い学者は、それ以上にわからない(笑)。だから、知的財産権を教えている教授は、その分野の弁護士、裁判官、あるいは特許庁の官僚からの転身者や兼業者が多い。正直にいえば、法学としては未成熟な部分が大きいと思います。
 また、これは、一般社会にほとんど関係しない企業だけの争いでもあるので、まあ、特殊な裁判官や弁護士に任せておいてもいいか、というところはあるのです。
 しかし、原発訴訟にそんな特殊さなどありません。法律家はもちろん、一般知識人でも、原発訴訟の判決は読める。
 また、原発の潜在的な危険性を考えるならば、ことに、「原子力ムラ」のような硬直した専門家集団に安全性の判断をゆだねてきたことが大事故を招いた大きな原因であることを考えるならば、きちんとした裁判官が、中立客観的な立場から、厳正にその安全性を審査することが必要です。
 ――なるほど、そういうふうに専門家の視点から説明されると、目からウロコが落ちますね。
 瀬木 これは一般論ですが、たとえばアメリカで、「普通の裁判官は専門的なことなどわからないからそういう裁判はできない」などと言ったら、知識人なら、まず確実に、評価を落とします。政治家も同様でしょう。
 「自称知識人」がそういうことを平気で言ってすましていられる、批判も受けないでいられるのは、実は、日本人一般のお上第一意識が強く、また、司法の役割に関する理解が足りないからでもあるのですよ。残念ですが、これは事実だと思います。
 たとえばアメリカでは、第三者的な裁判官こそ公正な判断ができると考えるから、国の重要な政策でも、最後は最高裁判所の審査を経る形になっています。
 たとえば、公教育における人種差別をやめさせる、選挙で一人一票を徹底させ、従わなければ裁判所が専門家の意見を聴いて選挙区の形まで決めてしまう。これらは、アメリカ憲法をちょっと勉強すれば誰でもわかる実例です。
 また、素人である陪審員たちの集合判断についてすら、「裁判官の判断に劣らない」というのが、アメリカにおける数多くの広汎な調査研究の結果です。素人の判断する陪審裁判についてさえ、「明らかに間違っていると思われる場合にだけ裁判官がチェックすればいい」という考え方なのです。アメリカ的な民主主義を徹底しているわけです。
 いわゆる「原子力ムラ」の人々が典型的ですが、日本の原子力の専門家は、総じて、日本の原発の安全性に過大な自信をもち、また、数々の「根拠のない安全神話」を広めてきました。そのことは否定しにくいと思います。
 小説でもふれていますが、彼らはこんなふうに主張していました。
 ①原発における30分以上の全電源喪失は考えなくてよい
 ②日本ではシヴィアアクシデント(過酷事故)は起こらない
 ③日本の原発の格納容器は壊れないから放射能も決して漏れない
 そんな、欧米の知識人たちが絶句してしまうような「神話」、そしてもちろん、これら3つの言明がすべて何の根拠もない非科学的なものであったことが明白になった事故の後で考えれば、日本の普通の市民でも明らかにあれはおかしかったのだと考えざるをえなくなったような「神話」を、自信をもって主張していたのです。
 そしてそれを批判されると、「あなたは専門家ではないから、あるいは在野の人で片寄っているから、わからないのだ」と、からめ手からはねつけていました。こうしたことは、多くの書物に書かれているし、インターネットでも、大筋は調べられます。
 外国人とそうしたことについて話していると、皆、「どうして一流といわれるような学者、また政治家や官僚が、そんなおかしなことを言ったの? どうして、日本の人々はそれを信じてしまったの?」と、本当にまじめに問いかけてきますね。
 「痛い」問いかけであり、また、日本人の認識構造の問題、あるいは社会の性格やその歴史的背景から説き起こしてゆかないと理解が得られないので、説明するには、いつも苦労しています。
 こうしたムラ、タコツボ型専門家集団、総体としての「原子力ムラ」の傲慢さが福島第一原発事故を引き起こした、その大きな原因となったという事実を、決して忘れてはいけないと思います。
 
司法の責任
 瀬木 福島第一原発事故については、巨大津波襲来の可能性を示唆するシミュレーションも出ていたことを含め、決して「想定外」などとはいえない。
 大体、原発事故について、「想定外」などということを抗弁として持ち出すこと自体が問題です。なぜなら、それまでは、「絶対安全だ」と公言していたのですから。
 また、原発事故は、ほかの事故とは違って、格納容器が決定的に損傷したら、きわめて広い地域が汚染されて、多数の人が被曝し、家を追われるような事態ともなるわけですから。
 そして、日本の原発の危険性、脆弱性を事故前に指摘していたのは、在野の専門家、非専門家、あるいは、海外の関係機関でした。
 くどいようですが、あんなひどい事故があり、数多くの人々が被災し、広汎な地域に今なお人が立ち入れないような状況が続いているにもかかわらず、また、事故処理も遅々として進んでいないにもかかわらず、反省も検証も十分に行われないまま、なし崩しに再稼働の方向に進んでいるというのが、日本の現状だと思います。
 事故原因の厳密な確定がなされたか否かについてすら疑問なのです。また、たとえば、そういう状況で、運転期間が40年間を超えた古い原発の運転延長を安易に認めてよいのかも、きわめて疑問です。
 そして、こうした事柄に関する司法の責任はきわめて重いのです。
 本来なら、裁判官たちが安んじて十分な審理を行えるよう環境を整えるべき最高裁が、電力会社や行政、政治の問題の多いやり方にお墨付きを与えるだけのような審理、裁判を行うよう、その意を汲む形で裁判官をコントロールするのは、本当につつしむべき行為です。
 そんな中、再稼働が許された原発について、2つの差止め仮処分が出たわけです。仮処分という形で即座に原発を止めるという判断を2人の裁判長、6人の裁判官がしたことの重みは、誰もが謙虚に受け止めるべきだと思います。足下をすくうような議論ばかりするのではなく、事柄の本質とその大筋をみるべきです。
 日本の原発をめぐるこうした状況については、僕の知る限り、原発を始めた国であるアメリカの人々についても、自由主義者のみならず、保守派でさえ危惧を抱いているということも、付け加えておきます。
 「日本人は、すぐに許し、忘れてしまうんだね、しまうのね」という感想は、ヨーロッパ人のみならず、アメリカ人からもよく聞きます。これも事実です。
 実際、たとえばアメリカやヨーロッパ先進諸国のどこかで、ああした問題の大きな事故が起こったら、原発再稼働は、容易なことではできなくなると思います。安易にそれを唱えるような電力会社、政治家、官僚、専門家は、市民やメディアから、大変な批判、非難を受けることでしょう。
 
2つのシナリオ
 ――本当にそう思います。そのことを踏まえると非常に気がかりなのは、さっきの専門裁判所のお話です。
 瀬木 原発訴訟を専門に扱う裁判所ないしはセクションができた場合、担当裁判所は、たとえば東京、大阪だけ、多くても高裁所在地くらいになるし、担当する裁判官のポストはわずかに限定されますから、最高裁の人事によるコントロールは、格段にやりやすくなります。ピンポイントで、そこの裁判官に、「間違いのない人」さえ置けばよいのですから。
 さらにいえば、これまでに、行政官をも含めた法律家の世界でちらほら出ていた議論から推測すると、原発訴訟については、民事訴訟の形式はだめ、行政訴訟でしか争えないという形にするといった方向も、考えられますね。
 詳しくは、今回の小説『黒い巨塔』を、また、『ニッポンの裁判』等もお読みいただきたいのですが、日本の行政訴訟では、行政裁量が非常に広く認められるため、原発訴訟についても、行政訴訟では、原発の設置を認めた行政庁の主張に沿った判決になる可能性が、きわめて高くなります
 過去に原発稼働差止めが出ているのは、「もんじゅ」の例を除きすべて民事訴訟だということからも、それがわかると思います。
 したがって、かりに原発訴訟を専門に扱う裁判所やそのセクションの設置は免れたとしても、原発訴訟が行政訴訟としてしか争えなくなったら、それだけで原発訴訟は事実上息の根を止められる可能性が高い。そういうことです。
 訴訟形式を行政訴訟に絞るという方法は、特別な裁判所の設置とは異なり、非専門家にはその意味がわかりにくく、世論やマスコミから批判を浴びにくいですからね。
 「原発訴訟は、結局、原発の設置を認めた行政庁の判断の是非が論点となるのだから、行政訴訟という形式に統一するのが合理的」などという説明がされると、コロリとだまされてそのままの報道をしてしまうメディアも多いのではないかという気がします。
 従来からの議論を踏まえると、以上のような2つの方向性がありうるわけです。2つが両方出てくる可能性もあるでしょう。しかし、専門裁判所の設置よりもハードルが低い第2の方向だけでも、原発訴訟は事実上息の根を止められる可能性がきわめて高いのです。
 ――いや、驚きました。そんなウルトラCがありうるとは。
 瀬木 本作は、フィクションですが、日本の原発をめぐる状況とその問題点については要点を絞り、また、原発訴訟についてはかなり高度なことまで噛み砕いて、いずれについても、小説という枠組みを壊さないよう、そのテーマときちんと重なり合うような形で、正確に書いています。詳しくは、この小説を読んでいただければ、非常によくわかるはずです。
 
原子力ムラの詭弁を見抜けるか
 ――専門性の高い原発訴訟は、ある程度技術に詳しい裁判官が担当すべきだという考え方についていえば、そうかもしれないと思う部分がないではないのですが……。そもそも、技術に暗い専門家では、「原子力ムラ」の住人たちの詭弁や高度なカモフラージュを見抜けないのではないでしょうか?
 瀬木 そういう意見もあります。
 実は、より専門知識の高い裁判官にさせたほうがいいという意見は、原発に批判的な学者からも、出ているのです。これは、逆に、「そのほうがより厳しく原発の危険性を指摘できるから」という考え方です(たとえば、新藤宗幸『司法よ! おまえにも罪がある――原発訴訟と官僚裁判官』〔講談社、2012年〕)。
 新藤さんのお考えについては、民事訴訟法学者としては、一定程度理解できる部分もあるのです。
 しかし、日本の裁判と裁判所、また、これに関わる権力の過去の動きをよく知っている元裁判官としてみると、先のような「制度改悪」の際に、新藤さんの、その動機からすればまっとうな意見が、皮相な形で引用されてしまう可能性も、否定できないと感じられるのです。そのようなことがないよう、ここであえて言及しておきたいと思います。
 再び欧米、ことにアメリカの裁判についての一般論ですが、高度の理解力のある普通の人間である裁判官、国民の代理人としての裁判官の、中立的、客観的な判断の積み重ねが、社会を正しい方向に導く、というものです。
 全部行政と政治にお任せの結果が、日本の停滞、また、「洗練されてはいるけれどもう一つ自由主義や民主主義の成熟していない国」という海外からの評価を招き、日本の政治家の発言は国際社会でも本来得られるべき重みをもって迎えられていない、軽んじられがちである、そういうことも、よくお考えいただきたいのです。
 日本の世論、ことにそれを先導するマスメディアは、権力からみると、御しやすい側面が強い。原発訴訟に関する先のような議論が出てきたときには、耳あたりのよい俗論にだまされないようにしないといけないと思います。
 たとえば、新藤さんの意見で僕もそれができればいいかもしれないと思うのは、原発訴訟専門裁判所の裁判官については原発に対して厳しい判断のできるような知識経験のある弁護士を過半数登用すべきだというものです。
 僕も本当にそれができればベターかもしれないと思いますが、日本の政治と司法の現状を考えると、たとえ弁護士からの登用が可能になったとしても、わずかな数のポストについて、真に適切な人々が選ばれるのだろうかという危惧は、もたざるをえないですね。
 もっとも、権力も最高裁も周到ですから、仮に原発訴訟を専門に扱う裁判所やセクションができたとしても、最初は、あまり露骨なことはしないでしょう。
 たとえば、最初に判決に至る訴訟については、時間をたっぷりとかけたそれなりに密度の高い議論が行われるかもしれません。しかし、結局は、原発の「専門性」をいって行政に幅広い裁量を認める判決が出る。
 そして、それ以降は前例を踏襲する判決が相次ぎ、稼働中の原発の差止めを認めるような果敢な判決はなくなる。そのうちに、みんな、「そういうものか」と思うようになってしまう。たとえばそんな展開も考えられますね。
 ――専門裁判所、セクションのお話は、本当に、民事訴訟法学者、法社会学者でかつ元裁判官、それも比較的権力に近いところで仕事をされることが多い裁判官であった瀬木さんでなければできない、すごくリアルにありそうな予測ですね。背筋が寒くなりました。
 瀬木 法曹界の噂ですが、実際に、このような専門裁判所をつくろうという動き、立法の動きがあるのではないかということも、複数回聞いたことがあります。もしもこうした動きが具体化したときには、メディアは、司法と政治の深謀遠慮を察して、その危険性を広く知らしめる必要がありますね。
 マスメディアは、その思想性、傾向性のいかんにかかわらず、少なくとも、「原発訴訟の審理の質を高める専門裁判所制度創設!」などといった、節操のない提灯スクープ記事だけは、書かないでほしいと思います。
 これもまた、小説に書くことではないので、ウェブマガジンという誰でもアクセスが可能なこの場で、釘を刺しておきたいと思います。
 先のような予測が現実のものにならないことを願っています。過去の原発差止め判決、仮処分の理由付けや分析は、少なくともその大筋では、説得力あるもの、勇気あるものです。とかく批判者からは一方的といわれがちな樋口裁判長の判断についても、ことに仮処分のほうは、より説得力があると思います。
 もんじゅ訴訟が高裁で原告ら勝訴(第二次控訴審判決)、最高裁がそれをくつがえし、再び稼働したもんじゅでは直後に事故が起こって稼働ができなくなったという事実も、『ニッポンの裁判』でふれていることろですが、思い出して下さい。
 ――はい、そうですね。そのとおりだと思います。
 これまでのお話からもわかるとおり、『黒い巨塔』は、文学、創作であり、また、原発訴訟のみを扱った本でもありませんが、最高裁が原発訴訟をいかにコントロールしてきたか、しているか、そして、日本における司法と政治の関係等を知る上でも、非常にわかりやすくリアリティーの高い描写のある、参考になる本だと思います。
 瀬木 原発訴訟を小説の基本的な骨格としたのは、ためにするものではないのです。原発訴訟という訴訟の形とその歴史の中に、日本の司法、また広い意味では日本の権力、さらに、メディア、社会、国民性等の問題、さらには、日本の戦後の歴史の暗部が、非常に象徴的な形で現れているからなのです。
 そうした観点から、もちろん小説という形式からくる一定の限界や節度もありますが、過去の、原発、原発行政、原発訴訟に関する書物にはないものを打ち出そうとしたことは、確かです。
 ――前回と今回のインタビューでは、今回の小説を読む上でも、また、楽しむ上でも重要な背景事情に関する、突っ込んだお話がうかがえました。ことに、原発訴訟というモチーフにまつわる背景事情、作品の記述の前提事情は、よく理解できました。また、ここでの瀬木さんの御発言の内容それ自体が、非常に重要なものであるとも思います。どうもありがとうございました。
 瀬木 こちらこそ、ありがとうございました。