福島原発事故の後始末と東京電力の経営問題等を巡る議論が、経済産業省主導で「東電改革・1F問題委員会(東電委員会)」と「電力システム改革貫徹のための政策小委員会」の二つの委員会で進められていますが、その動向について二つの地方紙が問題視する社説を書きました。
河北新報と高知新聞の社説を紹介します。
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(社説)原発事故の処理費用/閉鎖的な議論では道を誤る
河北新報 2016年11月21日
前者は「東電改革・1F問題委員会(東電委員会)」、後者は「電力システム改革貫徹のための政策小委員会」が舞台だが、いずれもいわゆる「有識者」がメンバー。
二つの委員会に直接の関わりはなさそうにも見えるが、実は原発事故の処理費用をどう捻出するかが大きなテーマ。これまでの議論では、今年4月の電力自由化で参入した「新電力」の送電線使用量に上乗せする形で、処理費用の負担を求める案が浮上しているというから驚く。
大手電力と原子力に対する露骨な優遇策ではないか。もちろん電気料金に上乗せされれば、国民負担の増加につながる。エネルギー政策と国民生活に関わる大切な議論を、一握りの有識者で決めるのはもってのほかだ。
原子力開発は閉鎖的な「原子力ムラ」の住人が担っていたが、いつの間にかすっかりゆがめられたことは原発事故の重大な教訓。かつてのムラの体質を思い起こさせるような進め方では、国民の納得は到底得られない。
今回の議論が必要になったのは原発事故の後始末をきちんとできるのかどうか、怪しくなってきたから。東電は当初、廃炉費用を「年間800億円、合計2兆円」と見積もっていたが、実は年間数千億円必要だという。
つまり2兆円では全く足りなくなった。さらに放射性物質を放出したことによる損害賠償と除染にも膨大な費用が必要。額は9兆円と思われていたが、こちらも膨らむのが確実になっている。
結局、総額11兆円ではとても間に合わず、数兆円の上乗せが避けられない。
その手当を議論するなら、まず東電の経営状況を詳しく調べ上げ、可能な限り支払わせるのが当然だ。必要なら、組織の根本的な見直しも本格的に検討すべきだろう。
東電の責任を徹底的に議論しないまま、始まったばかりの電力自由化に「財源」を求めるのは、エネルギー政策をゆがめることに等しい。
議論の進め方も極めて問題がある。東電委員会はこれまでに3回、秘密裏に会合を開いたことが明らかになっている。国の政策に反映される提言をまとめる委員会が闇会合を開いたのでは、それだけでもう議論する資格を失う。
国民に新たな負担を求めるかもしれないならば、一省庁が勝手に人選した有識者で済ませられるはずはなく、さまざまな階層の意見を集めるのが当然だろう。
わずか数カ月間のうちに、あらかじめ描いたシナリオ通りの結論を得るような進め方はいかにも姑息(こそく)に映る。原発事故の後始末で何が問題になっているかを隠さず明らかにした上で、出直すべきだ。
(社説)【原発事故の賠償】事業者の責任は当然だ
高知新聞 2016年11月21日
原発の運転は本来、万一の過酷事故の際に収束や賠償の責任を負うことと不可分なはずだ。
福島第1原発事故の甚大な被害ゆえに揺らいでいた当然の「責任論」が改めて確認された。
原発事故に備えた損害賠償制度の在り方を議論している原子力委員会の専門部会が、電力会社の賠償負担に上限を設けない「無限責任」を維持することで一致した。
通常の企業活動に従事する一般の国民にとって、この根本的な議論自体に疑問がわこう。原発事業も原子力損害賠償法で原則、事業者が過失の有無にかかわらず無制限に賠償責任を負うことになっている。
だが、過去最悪レベルとなった福島の事故では、業界トップの東京電力でさえ巨額の賠償責任を背負いきれず、実質的な国有化に追い込まれた。
このため、業績改善に向け原発の再稼働を急ぐ電力業界が、一定額を超える賠償は国が負担する「有限責任」への変更を強く求めたわけだ。大手電力が原発のリスクとコストが見合わないと自ら認めたに等しいといえよう。
専門部会でも昨年5月から議論されたが、利益は得ながら責任の一部を放棄しようとする姿勢はあまりに都合がよすぎる。国民の理解が得られないとの判断に行き着いたのは当然の方向性である。
しかし、原発の責任を巡るせめぎ合いは当面、収まる気配はない。政府が総額11兆円規模と見込んだ事故対応費用が、想定を上回ることが避けられそうにないからだ。
経済産業省が設けた電力システム改革、東電の経営再建と廃炉支援を検討する二つの有識者会合は、いずれも電気料金の値上げなどを通じた新たな国民負担を視野に議論を進めている。
原子力事業を含めた東電改革、他電力との連携も検討されているが、看過できないのは電力小売りの自由化で新規参入した新電力にも負担を求める点だ。
福島事故の賠償費用に加え、東電による費用捻出が原則だった廃炉についても、送電網の使用料として大手に支払う「託送料金」に上乗せするという。
自由化で大手電力の経営環境は一段と厳しくなり、原発への投資や廃炉費用の確保が難しくなる。これまで原発の安定供給を受けてきた幅広い消費者が負担すべきだという理屈である。ただ、廃炉を理由にしても原発の支援策にほかならず、自由化の競争環境をゆがめると言わざるを得ない。
国民は既に、公金の投入で負担を負っている。東電という一企業の不祥事のしわ寄せを、どこまで強いられなければならないのかという疑問は拭えないだろう。
国民の約6割は今も再稼働に反対している。原発事故の対応費用を原発の収益で賄おうという前提に違和感が尽きない。根本から「原発の責任」を見つめ直す必要がある。