2017年1月10日火曜日

10- 広野町の高野病院の危機を救え 常勤医ゼロで診療

 12月30日夜の自宅火災で高野英男院長(81)くした福島県広野町の高野病院は、現在常勤医不在の状態で診療を続けています。病院の呼びかけでボランティア30人以上の医師によって、1月中は交代で診療を続ける見通しが立ちましたが、常勤医不在のまま病院を継続していくことは難しく、存続の危機に立たされています。
 
 泉谷由梨子が「原発から22キロ、常勤医ゼロの高野病院の危機を救え」と訴える記事を The Huffington Postに投稿しました。
 
 それとは別に、東京新聞の論説委員が、在りし日の高野院長の奮闘を回想する記事を載せました。
 二つの記事を紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「福島の医療崩壊は、どこでも起こりうる」
原発22キロ、常勤医ゼロの高野病院の危機を救え
   泉谷由梨子  The Huffington Post  2017年1月9日
東京電力福島第一原発事故後、原発がある福島県双葉郡内で唯一、入院できる施設として診療を続けてきた高野病院の高野英男院長(81)が死亡し、常勤医が不在になっている。病院のある広野町は1月9日、ふるさと納税を利用したクラウドファンディングによる支援金の募集を始めた。
 
高野病院をめぐっては、南相馬市立総合病院の医師らによるボランティア「高野病院を支援する会」が発足し、ボランティア医師の緊急派遣などを行っている。
初代の代表を務めた同病院の尾崎章彦医師は、ハフィントンポストの取材に対して「万一病院がなくなれば、地域に与える負の影響が非常に大きい。どこにでも起こりうることとして、皆さんにぜひ考えて欲しい」と訴えている。支援金は遠方から駆けつける医師らの交通費と宿泊費として使用されるという。
 
尾崎章彦医師は以下のように訴える。
高野先生は亡くなるまで「地域の人々のために」と高い志を持ち、献身的な姿勢で、どうにか、福島の原発周辺での医療を成立させてきました。被災地のために働く医師にとっては、「高野先生があんなに頑張っているから、自分も」と思うような、被災地のシンボル、象徴的な存在でした。
高野病院には精神科もあり、長期療養の方が多い。中には10年間入院しているという患者さんもおられました。地元の人にとって大きな役割を果たしている。万一、なくなってしまえば、地域に与える負の影響は非常に大きい。
 
会は高野院長の死亡後、ボランティアの医師を募って、病院が診療を続けるための支援を続けている。尾崎医師によると、呼びかけに集まった30人以上の医師によって、1月中は交代で診療を続ける見通しがたったという。一方で、常勤医不在のまま病院を継続していくことは難しいという。
 
■県が支援を表明、しかし...
こうした高野病院の状況を受けて、福島県の内堀雅雄知事は、1月4日の年頭記者会見で県として支援する考えを表明した。
しかし、尾崎医師らによると、6日に開かれた町や病院などとの緊急会議で、県は非常勤医師の派遣を県立福島医大に要請するなどの支援策は表明したものの、その他は、既存の避難地域に対するものだけで、「目新しい具体的な支援案はなかった」という。
 
「非常勤で来てくれる医者、あるいは常勤医が見つかりました、じゃ、後はがんばって」。それで高野先生のような献身的な働きを今後も求めていく、そんなやり方でいいのでしょうか?
民間病院への公的支援というのが難しいことは理解できます。ただ、被災地のために、高野先生は全てを投げ打って、地域を支えてきた。他にも、緊急時だからと民間病院でがんばっておられる先生方もいます。もしも高野病院がこのまま十分な支援を受けられないようであれば、そうした踏ん張っている人々に与える影響も大きい。
もう一度、県にはよく考えてもらって高野病院のサポート、そして、きちんとした地域医療の体制を整備して欲しいと思います。
 
■医療は住民帰還にとって最重要の項目
高野病院がある広野町は、双葉郡内では最も南に位置する。放射能による汚染の影響が比較的少なく、双葉郡では2012年3月に最も早く住民の帰還が始まった。
高野病院のある広野町の隣に位置している楢葉町は、2015年9月に避難指示が解除された。また、2017年春には浪江町と富岡町が、町の一部で避難指示を解除する見通しとなっている。
しかし、楢葉町では全人口約7300人(住民基本台帳登録者数)のうち、1月4日時点で帰ってきたのは386人のみだ。楢葉町には病院はなく、診療所のみ。
 
住民に対するアンケート調査(2016年3月公表)では、帰還の判断のために最も重視されているのは「医療・介護・福祉施設の充実度」だった。
「避難指示さえ解除すれば住民が元に戻る」というのが幻想であることは、楢葉町の事例からも明らかです。医療などのインフラが整っていない中では、元の土地にいくら戻りたくても戻れません。国や行政の責任で住環境を整える必要があり、中でも医療に対する住民の不安を解消すべきではないでしょうか。
福島のこの地域は以前から少子高齢化・過疎化に悩まされる地域で、原発事故でそれが加速しました。しかしこれは特殊な事情ではなくどの地域にも起こりうること。こうした地域医療の崩壊について、みなさんにぜひ他人事ではないと考えて欲しいと思います。
 
■高野病院とは
高野病院は、原発から約22キロの広野町に位置する精神科・内科の私立病院。町は2011年3月13日、全町に対して避難指示を発令したが、高野病院はほとんどが高齢の入院患者約100人を抱えており、移動させることには重大なリスクがあると判断し、避難せずに現在でも診療を続けている。
しかし、それを支えてきた常勤医は高齢の高野院長たった一人。非常勤医師の派遣も受けて、救急も含む診療を継続してきた。震災後の町には、帰還した住民だけなく、除染や廃炉の拠点として多くの作業員が在住しており、そうした復興を支える人々の医療も担っている。
 
一人で奮闘を続けていた高野院長が命を落としたのは、2016年12月30日夜だった。診療を終えた高野院長が、病院敷地内の自宅に戻ったところで火災に見舞われた。以降、病院は唯一の常勤医を失って、存続の危機に立たされている
 
 
原発事故当時の病院 移送の難しい患者抱え「美談なんかじゃない」
東京新聞 2017年1月9日 
 高野英男院長を初めて取材したのは、福島特別支局在任時の二〇一三年十一月。原発事故後、避難せずに診療を続けた行為を「美談なんかじゃない」と言ったのが忘れられない
 やむにやまれぬ判断だった。一一年三月十一日の震災当時、精神科と内科に約百人の入院患者がいた。寝たきりで、移送に耐えられそうにない高齢者もいた。
 病院は海岸に近い丘の上にある。震災の日、津波で停電、断水も起きた。その夜、がれきで埋まった真っ暗な道を夜勤の看護師四人が出勤した。
 広野町は十三日に全町避難を決めた。給食の作り手がいなくなると、入院患者の家族らが手伝った。隣町のスーパーの経営者は、店の裏口の鍵を渡してくれた。非常勤医師を派遣していた杏林大は、跡見裕学長が先頭に立って支援した。消防団、自衛隊、東北電力の社員…。多くの人が支えた。 
 
◆死去の院長患者第一 3・11後、夜も病院に
 高野英男院長は東北大理学部に進学したが、在学中、人間への関心が強くなり、精神科医に転身した。若いとき、内科も学び、外科手術も経験した。「患者と長く接するために」一九八〇年、高野病院を開院。「地域の無名の臨床医としてやっていく」つもりだった。
 
 原発事故後もとどまるのは、いばらの道だった。地域は崩壊し、子どものいる職員も避難した。
 普段は仕事が終わると病院の敷地内にある自宅に戻っていたが、3・11後は夜も病院にいた。
 「ロビーにスタッフが集まった。昔話をしながら様子をみた。それほど不安が強い人はいなかった」
 双葉郡の北にある南相馬市で生まれた院長は、放射性物質はこの地域でよく吹く南風に乗り、病院への影響は小さいと考えた。町役場から借りた線量計で繰り返し放射線量を計測した。医学的、科学的にリスクを考えた。
 
 震災で病院を取り巻く環境は大きく変わったが、患者第一の院長の姿勢は揺るがなかった。
 「朝六時には病院に入る。夜勤者の申し送りを聞き、必要があれば患者を診る。昔から朝食は食べない。コーヒーを一杯と半熟のゆで卵を一個。コーヒーをいれるのが楽しみ」
 「病棟をまわるとき、私を見ても患者の表情が変わらなかったり、声を掛けても返事がなかったりすると、少し具合が悪いかなと。そんな見方をする」
 
 楽しみは仕事の後、自宅に戻って飲むビール。「ピッチ(PHS、簡易型携帯電話)は手の届く所に置く。風呂に入るときも、シャワーを浴びるときも。哀れだなあ、と思います」。「酔うことはない」とも言っていた。
 悲報を聞き、一月に入って病院を訪ねると、事務長室に遺影が飾られていた。缶ビールの六本パックを置いて合掌した。
 「病院を守ろうとたくさんの人が力を合わせています。もう、酔っても大丈夫ですよ」 (論説委員・井上能行)