2017年2月25日土曜日

25- <脱原発 東北の群像> 河北新報 連載記事

 福島の原発事故から間もなく6年になります。
 河北新報が、東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々を取り上げました。
 原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方で、運動が積み重ねてきた歴史敗北の側面も浮き彫りにしたとしています
 2月20日~23日の4回に渡る連載記事を紹介します。
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<脱原発 東北の群像>熱狂は失われたのか
 河北新報 2017年2月20日 
◎忘却にあらがう(1)路上の声
 「第216回脱原発みやぎ金曜デモ、今日も元気に参りましょう、出発!」
 17日金曜日の夜、仙台市の繁華街。太鼓のリズムに乗ってコール・アンド・レスポンスが響く。原発いらない、命が大事、女川原発再稼働するな-。行き交う人々は迷惑げな、あるいは好奇の目を投げ掛け、通り過ぎる。
 街の若者たちに聞いた。脱原発デモ、どう思う?
 「うるさい」「興味ない」「続ける意志はすごいと思うけど…」「デモはちょっと怖いかもー」
 
<見知った顔>
 仙台のデモは2012年7月に始まった。ブログやツイッターの呼び掛けに応じ、当初は約300人が集まった。この日の参加者は45人。大半が50、60代。皆見知った顔になった。
 先頭に立つのは金曜デモの会代表の西新太郎さん(53)。「今も毎回これだけの人が集まってくれる。原発がなくなる日まで、粘り強く続けたい」
 12年6月29日。首相官邸前を20万人(主催者発表)が埋め尽くした。熱狂は全国各地に飛び火した。「原発は止められる」。誰もがそう感じた。
 が、高揚は続かなかった。東京電力福島第1原発事故の生々しい恐怖が薄れるにつれ、参加者は波が引くように減っていった。川内、高浜、伊方。各地で原発再稼働が進んだ今、官邸前の金曜デモの参加者は800人程度になった。
 首都圏反原発連合の中心メンバー、ミサオ・レッドウルフさんは「官邸前行動が、安全保障関連法などを巡る抗議行動につながり、市民運動の形を変えた」と自負する。半面、運動を支えるモチベーションが下がってきたと感じている。参加者の減少や固定化といった課題は仙台と同じだ。
 
<思いは心に>
 反原発運動の歴史は、敗北の繰り返しだった。スリーマイル島原発事故(1979年)、チェルノブイリ原発事故(86年)…。その都度高まりを見せた危機感は、徐々に薄れ、忘れられた。
 あいコープみやぎ専務理事の多々良哲さん(58)は、福島事故が植え付けた思いは一過性ではないと信じる。12年6月、官邸を取り囲んだ群衆の一人。40年近く運動に関わってきた経験でも、見たことのない光景だった。
 「日本の市民が初めて『社会を変えられるかもしれない』『自分たちが主人公なんだ』と気付いた。原発を止めるのは大変だが、絶対に前に進んでいる」
 仙台のデモを支える市民団体の一つ「みやぎ脱原発・風の会」事務局長の舘脇章宏さん(51)は悲観していない。「昔の閉じた運動に比べ、アクターは多様化した。デモに参加しなくても、脱原発の思いは多くの人の心に潜在している」
 声なき世論に声を届けるべく、路上の訴えは続く。
 東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々がいる。福島第1原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方、運動が積み重ねてきた敗北の歴史も浮き彫りにした。事故から間もなく6年。国が原発再稼働を推し進める中、彼らは何を感じ、どう行動するのか。(報道部・村上浩康)
 
 
<脱原発 東北の群像>長き闘い 諦めの先へ
河北新報 2017年2月21日
 東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々がいる。福島第1原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方、運動が積み重ねてきた敗北の歴史も浮き彫りにした。事故から間もなく6年。国が原発再稼働を推し進める中、彼らは何を感じ、どう行動するのか。(報道部・村上浩康)
 
◎忘却にあらがう(2)時は流れ
 「運動は一朝一夕にはいかない。続けることは大事だが、繰り返すだけでは、新鮮な感受性やエネルギーが失われる」
 脱原発東北電力株主の会代表などを務める仙台市泉区の篠原弘典さん(69)。女川原発(宮城県女川町、石巻市)との長い闘いは、東北大工学部原子核工学科に在学中の1970年10月、女川町であった漁民総決起集会への参加にさかのぼる。
 78年8月、漁協が女川原発建設に伴う漁業権放棄を可決したのが一つの節目だった。最盛期に3000人以上が集結した反対運動の最大最後のとりでが崩れ落ちた。「抵抗の手だてを失い、諦めが広がった」と振り返る。81年に起こした全国初の建設差し止め訴訟では、2000年に最高裁が訴えを棄却した。
 
<同志ら他界>
 国や電力会社は担当者が代わるが運動は違う。多くの先輩、同志と申し入れや株主提案などの抵抗を続けた。多くが鬼籍に入り、4月に70歳になる篠原さんは、その無念さを思う。
 東京電力福島第1原発事故は「脱原発という目的を明確にさせた」。ただ、土壌汚染や指定廃棄物最終処分など各地域で課題が異なり、脱原発は大きなうねりになっていないと感じる。
 もどかしさは立地地域にも漂う。女川町議の阿部美紀子さん(65)は、反対運動の象徴で町議も務めた宗悦さん(12年死去)の長女。父は東日本大震災で被災後、福島事故を知り「こんなのは見たくなかった」と悔しさをにじませた。
 父の影響で「当たり前に反原発になった」と阿部さん。父に反抗した時期もあったが、漁業権を奪われながら運動に私財を投じ、浜を回って人々を説いて集会をまとめ上げた無私の行動力はまねできないと思う。
 父の仲間も多くが世を去った。原発への不安は町民に潜在的にあると感じるが、原発3基の既成事実が積み上がった地元で、かつてのような抵抗を再現するのは難しい。「反対を叫ぶだけでは行き詰まる。新しく何かをつくることが必要だと思う」。漠然とだが、父とは異なる形で原発に頼らない未来を模索する。
 
<孤立させぬ>
 反原発科学者グループ「熊取6人組」の一人、元京大原子炉実験所助教の小出裕章さん(67)は「美紀ちゃん(阿部さん)のように地元で抵抗する根っこを孤立させてはならない」と話す。東北大で篠原さんの2年後輩。女川の運動に関わった青春が原点にある。
 人が生きること、まちをつくるという営みを小出さんは女川から学んだ。「原子力は麻薬。患者である地域が自立するには、どう生きるかのビジョンを外部が示さなければ」と話す。
 67年の女川原発計画浮上から50年。篠原さんは長年の運動を評価され、16年度の「多田謡子反権力人権賞」を受賞した。17年2月19日、仙台市であった祝賀会で誓ったのは、新たな「現地主義」の構築だ。「女川は原発城下町になって本当に豊かになったのか。未来は明るくなったのか。原発のない未来へ議論の土台をつくり、働き掛けていく」
 
 
<脱原発 東北の群像>「首長奪取」遠い悲願
 河北新報 2017年2月22日 
 東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々がいる。福島第1原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方、運動が積み重ねてきた敗北の歴史も浮き彫りにした。事故から間もなく6年。国が原発再稼働を推し進める中、彼らは何を感じ、どう行動するのか。(報道部・村上浩康)
 
◎忘却にあらがう(3)選挙の壁
 34票。惨敗だった。「準備不足を反省している」。青森県大間町長選があった1月15日の夜。熊谷厚子さん(62)は、初挑戦の町長選を淡々と受け止めた。
 電源開発が町内に建設中の大間原発に反対し、土地売却を拒み続けたあさ子さん(2006年死去)の長女。事務所となったログハウス「あさこはうす」は、原子炉予定地からわずか250メートルの場所に立つ。
 
<反対叫ばず>
 母娘2代が守る土地は反原発の象徴として全国の注目を集めてきた。しかし熊谷さんは町長選で「反対」を掲げなかった。公約集は原発の2文字すらない。
 立候補表明は告示前日。全国の反対派に支援を求めることもなかった。原発推進の現職が2000票余りで4選された選挙で、原発反対を訴えた町外出身候補の79票にも及ばなかった。
 迷いにも見える姿勢は立地町の住民ゆえの苦心の産物だった。「雇用や地域振興で原発は生活に溶け込んでいる。もちろん反対だけど、それでは解決しない。外から来た人が騒いでも生活はずっと続く。生活者、一町民でやりたかった」
 
 日本原燃の使用済み核燃料再処理工場など核燃サイクル施設が立地する青森県六ケ所村。菊川慶子さん(68)は村長選、村議選に核燃反対を掲げて計3度挑み、落選した。県内外から多くの支援を受けたが大勢は変わらなかった。「反対を言わないのは極端だが、全国の支援者に頼りたくない熊谷さんの気持ちは分かる」と言う。地元で反対を叫ぶ難しさは骨身に染みる。
 青森県では立地町村の選挙のほか、知事選、国政選挙で幾度も原子力・核燃政策が争点に上った。反対運動が伝統的に選挙に注力してきた証しだ。
 
<新潟に続け>
 「選挙以外にない。住民の底流にある思いを引き出し、立地自治体の長を取って政治を変えなければ、脱原発や核燃阻止は難しい」。旧浪岡町長の平野良一さん(88)が指摘する。
 核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会の共同代表を長く務め、今は顧問。自身も2003年知事選で反核燃の不戦敗を避けるべく立候補し、敗れた。その後も知事選などで反核燃候補を支援するたびに苦杯を重ねてきたが、信念は変わらない。
 93年着工の再処理工場は相次ぐトラブルで23回も操業延期が続く。一方、05年に東北電力東通原発(青森県東通村)が稼働、大間原発と使用済み核燃料中間貯蔵施設(青森県むつ市)が建設中。集中立地の既成事実化が進む。
 「福島の事故で変わると考えたが、甘く見過ぎた。大義名分で大ざっぱに押せば勝てると自己満足し、新しい運動をつくれなかった。私らの責任は大きい」と平野さん。
 15年知事選は反核燃の新人が12万票を獲得。供託金没収を免れ、ささやかだが手応えを感じた。16年、再稼働慎重派を当選させた新潟県知事選の再現があれば  と希望を見いだす。
 一線を退いた今も考え続ける。「正論や原則論を唱えるだけでなく、政治、司法、市民運動の現実的な場にどう生かすか。あの世に行くまで、できることは何でもやる」
 
 
<脱原発 東北の群像>悔恨 それでも訴える
  河北新報 2017年2月23日
 東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々がいる。福島第1原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方、運動が積み重ねてきた敗北の歴史も浮き彫りにした。事故から間もなく6年。国が原発再稼働を推し進める中、彼らは何を感じ、どう行動するのか。(報道部・村上浩康)
 
◎忘却にあらがう(4)分断から
 あんたの言う通りだったな、と言われる。反原発の訴えは人々に届いたとは思うが、遅きに失した。あの事故から6年がたつ。
 「圧倒的少数派だった。圧倒的に。一政党や労働組合が原発を阻止するなんて無理がある」
 石丸小四郎さん(74)は避難先の福島県いわき市で、今も無力感と悔恨を抱える。東京電力福島第1原発1号機が稼働した翌年の1972年、旧社会党を中心に結成した双葉地方原発反対同盟の代表。自宅がある福島県富岡町は全町避難が続く。
 
<事故が証明>
 党の支部委員長だった岩本忠夫さん(2011年死去)の誘いで運動に加わった。「核と人間は共存できない」と話した岩本さんは後に双葉町長として原発推進に転じたが、その言葉の正しさは、福島第1原発事故が図らずも証明した。
 1号機が東北で最初に稼働した後も少数派の苦闘は続き、計10基が立地する原発県となった。一坪地主運動などで粘り強く闘った東北電力浪江・小高原発が最終的に計画撤回となったことは、小さな救いだ。
 石丸さんも年を重ねた。一時体調を崩した。が、バトンは渡せずにいる。「原発反対とは、苦労が多く喜びのないものだった。一緒にやろうと言えなかった。俺自身の駄目なところだ」
 石丸さんは今、講演などで原子力の存在が持つ罪深さを訴える。過疎地と電力消費地。原発マネー。労働被ばく。事故はさらに、放射能汚染や賠償金、自主避難と帰還、低線量被ばくを巡る認識など、被害者同士にさえ分断を生んだ
 「原発をなくすため最後の人生を懸ける」。石丸さんの闘いは終わらない。
 
<困難さ実感>
 福島原発告訴団団長の武藤類子さん(63)=福島県三春町=は、副団長の石丸さんらと共に東電旧経営陣の刑事責任を追及する。「事故の責任が問われ、償われることが、原発を止める一つの方法になる」と話す。
 国は帰還政策を急ぐ。事故や被害者を消し去る行為に見える。心の中の不安、不満、反対を口に出し続けていくことが、難しくなってきていると感じる。
 武藤さんは、86年のチェルノブイリ原発事故をきっかけに、友人と小さなグループを立ち上げた。当時、女性が主な担い手となり「反原発ニューウエーブ」と呼ばれた世代に当たる。
 「政党や労組みたいな古い組織が嫌でやってきたけど…。私たちも自己犠牲で頑張ってしまう世代。古くなりつつあると思う」
 事故後、県内外に無数に誕生した市民団体は、多くが自然消滅していった。運動の盛衰を知るだけに、仕方がないとは思う。
 「後始末は、事故を引き起こした私たち世代の責任でやる。今の若い人は反対するのが苦手。ノーではなくイエス、プラス思考の生き方をしてほしい」
 発電方法の一つにすぎない原子力が生んだ大事故を、きちんと問い直す。必要なのは、自分の頭で考え、つながり、一喜一憂せず、諦めないこと  。武藤さんは若者に呼び掛ける。