2015年6月30日火曜日

原発事故・水俣病・鉱毒 繰り返す災禍 変わらぬ構図

 福島原発事故は、東京電力という企業が原子力発電という事業活動の過程において、放射性物質を大量に環境中に放出してきわめて大な範囲の環境を汚染した史上空前の公害です。
 その被害の救済は、金銭的賠償に加えて除染による環境汚染からの回復、被曝による健康障害に対する予防、被災者の生活様式の原状回復などの全般にわたらなければなりませんが、碌に行われないままに終了に向かおうとしています。
 
 史上最大の公害は熊本で起きた水俣病で、補償を求めた患者数(申請者数)だけでも19000人を上回りましたが、政府は不当にも複数の症状がなければ認定しないとする基準を作ったために、水俣病と認定された患者は僅かに2300人弱でした(以上、熊本水俣病ベース。9年後に新潟水俣病が発生)。
 しかも長い間原因不明とされていたため、世間体を恐れて認定を申請しなかった患者の方が多く、患者の実数は5万人とも10万人以上に及ぶ(NHK報道)とも言われています。
 
 日本の公害の原点は足尾銅山鉱毒事件です。
 足尾鉱毒事件は1885年8月に初めて新聞で報道され、1899年には鉱毒による死者数は1064人と公表されましたが、時代的な制約もあって事業差し止めなどはされずに、実に、足尾銅山は銅が掘り尽くされる1973年まで操業が続けられました(精錬所は更に1980年代まで操業)。
 
 以上の公害に共通しているのは、すべて国策による企業活動によって生じているという点です。
 足尾銅山は明治期 東アジア一の産出量を誇り、生産された銅が主要な輸出品となるために国策でその増産が進められました。
 水俣病は、経済成長期の重化学工業の基材であるアセトアルデヒドの生産が最優先された中で引き起こされました。
 原発もまたアメリカから要請され国を挙げて推進されたました。
 
 そして水俣病がその典型ですが、国は原因を隠蔽し続けました。そのために患者たちは「奇病」とされ、そのこと自体で余計な精神的苦しみを味わされました。足尾鉱毒事件でも、そうしたいわゆる風評被害を避けるために住民自身が鉱毒の被害に口を閉ざすという現象がありました。
 原発事故においても、年間20ミリシーベルトまでは健康に影響しないなどということを国が決め、福島県も含めて「放射能の心配は要らない」という大合唱をしています。
 その結果、福島県内やその近傍で「放射能の影響が心配」ということを口にしにくいという状況が生まれているということです。
 
 28日、かつての足尾銅山を持ち、県北が福島県に接している栃木県宇都宮市で、「水俣病や足尾銅山鉱毒事件、福島第一原発事故を被害者の目線で見つめるシンポジウム開かれました。
 原発事故後、県内の避難者の支援に取り組んできた宇都宮大の教職員有志が企画しました
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
原発事故・水俣病・鉱毒 繰り返す災禍 変わらぬ構図
東京新聞 2015年6月29日
 水俣病や足尾銅山鉱毒事件、東京電力福島第一原発事故を被害者の目線で見つめるシンポジウムが二十八日、宇都宮市の宇都宮大峰キャンパスで開かれた。母親の胎内で水俣病になった胎児性患者らも出席し、参加した学生ら約百三十人は「足尾、水俣、福島では弱い人々が差別され、犠牲を強いられてきた。悲劇を風化させてはならない」とのメッセージに、深く共感していた。 (大野暢子)
 
 シンポジウムは、原発事故後、県内の避難者の支援に取り組んできた宇都宮大の教職員有志が企画。熊本県水俣市で、障害者に雇用や交流の場を提供している事業所「ほっとはうす」に通う胎児性水俣病患者の松永幸一郎さん(52)と、永本賢二さん(55)が出席した。
 松永さんは「七歳まで歩けなかったため、地元を離れて病児向けの施設で暮らさなければならなかった」と説明。成人してからはマウンテンバイクを乗りこなすなど元気に過ごしていたが、近年は足の痛みが増し、車いすで生活している。
 松永さんが生まれる四年前の一九五九年、熊本大が水俣病の原因は有機水銀だとの可能性を示したのに、原因企業のチッソが海への水銀の排出を止めなかったことにも言及。「すぐ排水を止めていたら、水俣病にならずに済んだかもしれない」と悔しさを募らせた。
 一方、永本さんは父親がチッソの社員だったという境遇を明かした。患者に認定された後、学校や地域で「補助金をもらえていいね」と中傷された経験を振り返り、「あんなにつらいことはなかった。しかし父親のことは誇りに思っていた」と複雑な胸中を語った。
 
 この日は、足尾銅山の鉱毒で廃村となった谷中村(現栃木市)の歴史を語り継いでいる高際(たかぎわ)澄雄宇都宮大名誉教授や、栃木県北部で原発事故の賠償を求める集団ADR(裁判外紛争解決手続き)を申し立てた「県北ADRを考える会」の西川峰城(みねき)代表も出席。環境汚染が人の命を脅かす構図について意見を交わした。
 
 ほっとはうすの加藤タケ子施設長も参加し、「経済発展を最優先してきた国の過ちが、水俣でも原発事故でも繰り返された」と強調。一方で、「困難な中でも希望を忘れず、皆さんと解決策を考え続けたい」と学生たちに語り掛けていた。