中日新聞が「原発ゼロへの再出発」と題する社説を掲げました。
新潟県の泉田知事の言動についてキチンと評価しています。
社説の言葉はその一つひとつがもっともな指摘です。
注.中日新聞は東京新聞の親会社に当たります。
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(社説) 原発ゼロへの再出発 年のはじめに考える
中日新聞 2015年1月10日
3・11以前にも勝る原発過保護が始まったのか。福島の事故など、なかったように。後ろ向きに時代の坂を駆け降りる、そんな新年にしてはいけません。
やっぱりゼロが焦点でしょう。
新年六日、東京電力の広瀬直己社長が新潟県庁を訪れ、泉田裕彦知事と一年ぶりに会いました。
柏崎刈羽原発の再稼働に理解を求める広瀬社長に、泉田知事は、政府の事故調査・検証委員会による調書のうち、勝俣恒久会長ら当時の東電役員分を公開するよう要求した。
広瀬社長は「同意するかどうかは個人の問題」と、それをはねつけました。
なぜ公開を拒むのか
勝俣氏らは、なぜ、かたくなに公開を拒むのでしょう。口を閉ざせば閉ざすほど、原発の安全性に疑念が募るというのに、です。
泉田知事は「それでは、安全性の議論はスタートラインに着けない」と断じています。
事故のさなかに、東電トップが何を考え、どんな判断を下して、どのような指示を出したか。そんなことも分からないまま、知事として県民に、原発の安全性を説明できるわけがありません。再稼働に同意できるわけがない。
安全性の議論は、まだ始まってもいない-。泉田知事の立ち位置は、新潟県民だけでなく、国民の多くが抱く不安の代弁だと言えるでしょう。
原子力規制委員会は、九州電力川内原発や関西電力高浜原発が、3・11後の新たな規制基準に適合するとは言いました。しかし、安全を保証してくれるという人は、まだ誰もいないのです。
政府は原発から三十キロ圏内の自治体に、避難計画を策定するよう義務付けました。
どこへどうやって逃げるのか。ほとんどの市や町が、苦慮しています。そもそも、本当に安全なら、どうして避難計画が必要なのか。原発事故は二度と起こしてはならないものではないですか。
昨年夏の電力需要期は、原発なしで支障なく乗り切った。この冬も電気が不足する気配はありません。それなのに、政府と電力業界は、再稼働への道のりをひたすら急ぎます。年末の衆院選の前後から、その足取りは加速しました。
四月に閣議決定された国の新たなエネルギー基本計画は、原発を「重要なベースロード電源」と位置付けた。一方で「原発依存については、可能な限り低減させる」と明記しました。将来的には、できるだけゼロに近づけるという意味ではなかったのでしょうか。
安全配慮というよりは
ところが自民大勝に終わった衆院選後、「重要なベースロード電源」だけが独り歩きし始めます。原発ゼロをめざすどころか、原発神話の復活と永続を意図したような、政府のあからさまな“原発びいき”が目立ちます。
暮れに開かれた原子力政策の方向性を議論する経済産業省の小委員会では、老朽原発を廃炉に導く一方で、敷地内で建て替え(リプレース)を進めるべきだとの意見が多く出ました。
四十年を超えて原発を運転するには、規制委の特別点検を受ける必要があり、安全対策を含めて一基一千億円以上の費用がかかるとされています。電力各社は、日本原電敦賀原発1号機など、五基の廃炉を検討しています。出力三十五万キロワットから五十五万キロワットという小型のものばかりです。
安全配慮というよりは、もうけの少ない小型を整理して、大型に置き換え、効率よく利益を生み出そうとの考え方が基本にある。その先には新増設さえ、見え隠れし始めました。これでは原発依存を解消できるはずがありません。
このほかにも原発の優遇策は、小委員会の話題になりました。たとえば価格保証です。
来年、家庭用電力の小売りが自由化され、原発を擁し、地域独占を謳歌(おうか)してきた電力会社も競争にさらされる。原発の電気が消費者に支持されず、市場価格が一定の水準を下回った場合には、差額を補填(ほてん)する仕組みを設けるべきだという。原発の運転コストは安いはずではなかったか。なりふり構わぬ原発過保護ではないか。
3・11被災者の悲哀を忘れ、福島の事故など初めからなかったかのような原発依存への急旋回は、一体誰のためでしょう。
国民的議論がないと
逆流する時間を止めて、私たちは何をすべきでしょうか。
泉田知事の言うように、まずは事故原因の徹底的な究明です。そして情報公開です。それに基づく科学的判断と国民的議論です。安全か、安全ではないか。最後に決めるのは、私たち国民です。
人は痛みを忘れることで過ちを繰り返す。新しい年を忘却と後戻りの年にしてはなりません。