14日夜の熊本地方の大地震は、震度7というまれに見る大きさでした(阪神淡路大地震が同規模)。川内原発は震源地からは遠い地域なので特に被害は伝えられていませんが、実際はどうだったのでしょうか。
櫻井ジャーナルは普段は国内問題にはあまり関わらないのですが、この大地震を機に日本のような地震国に原発を作る狂気を生み出している理由について明らかにしました。
その一つはカネ=原子力ムラの利権 であり、もう一つは核兵器所有への連綿と続いている欲望だということです。
日本が1956年に原研(日本原子力研究所)を設立したときは原子力の平和利用を目的にしていた筈ですが、1967年に動燃(動力炉・核燃料開発事業団)を設立したときには、どうもきな臭い発想がそこに込められていたようです。
原発銀座と呼ばれている若狭湾岸一帯が、日本一の活断層銀座でもあることは以前から知られているところですが、最新のコンピュータ解析でも、若狭湾岸付近が地盤ブロックの境界になっていることが明らかにされています。そこに現在は多数の原発が林立しさらに高速増殖炉もんじゅも配置されています。
もんじゅは空気に触れれば燃焼し、水に触れれば爆発する液化ナトリウムを伝熱媒体とする装置なので、もしも事故が起きて液化ナトリウムが燃焼したり爆発すれば、ナトリウムが燃え尽きるまで待つしかなく、手のつけようのない大爆発の中で装置に充填されている猛毒性(発がん性)のプルトニウムが全量放出されることになります。そうなればもはや西日本一帯には住めなくなるのではないでしょうか。
高速増殖炉はそんなに危険なのですが、既に1兆円以上をかけているというのに技術的に完成する目途は全く立っていないということです。現在は停止したままですが、それでも1日の維持費として5,500万円がかかっているということです。信じられない話です。
そんな百害あって一利もないもんじゅをなぜ止めないのか非常に不思議ですが、櫻井ジャーナルの記事を読むと、政府が決して廃止しようとしない隠された目的が分かります。
小出裕章氏が、常々もんじゅの隠された目的は核兵器の保有だと確信的に語っていることも理解することができます。
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熊本で大きな地震があったが、そこに原発がなかったのは運が良かっただけ。
それでも推進する狂気
櫻井ジャーナル 2016年4月15日
4月14日に熊本県熊本地方で最大震度7(マグニチュード6.5)の地震があり、その後も強い揺れが続いている。九州電力の川内原子力発電所がある鹿児島県薩摩川内市はさほど大きな揺れはなく、事故は報告されていない。もっとも、事故があっても隠せると判断すれば発表しないはずで、何も起こっていないとは言い切れないが。
今回、川内原発の周辺で大きな揺れがなかったのは運が良かっただけである。日本は地震が多発、どこでも大きな地震は起こりえる。活断層が問題なのは、岩盤がずれ、どれほど堅牢な建造物でも破壊されてしまうからだという。日本のような地震国に原発を作る狂気を生み出している理由はふたつある。カネと核兵器だ。
原発にはカネを求めて多くの人びとが群がっている。銀行、巨大製造業、電力会社、官僚、政治家、広告会社、学者、そしてマスコミ。原発という仕組みを止めたなら、彼らの収入と地位は危うくなるだろう。
日本が核兵器の開発を始めたのは1940年代前半のことだった。理化学研究所の仁科芳雄を中心として東京帝大、大阪帝大、東北帝大の研究者が集まった「ニ号研究」、そして海軍と京都帝大とで進められた「F研究」だ。
当時、アメリカやドイツでも核兵器の研究は進められていたが、ウランを大量に保有していたのはドイツだけだった。ユニオン・ミリエールというロスチャイルド系の会社がコンゴで採掘したウラニウム鉱石1200トンを1940年に入手していたのだ。そのうち31トンをアメリカ軍はフランスで、後に約1100トンをドイツで発見し、マンハッタン計画に利用するため、アメリカのテネシー州オークリッジの施設へ運ばれた。約1100トンのウラニウムが発見された日にフランクリン・ルーズベルト大統領は急死している。
1945年の初頭にドイツは544キログラムのウラニウムを載せたUボートを日本へ向かわせたが、5月にアメリカの軍艦に拿捕された。その際、潜水艦に乗船していた2名の日本人士官は自殺し、積み荷のウランはやはりオークリッジに運ばれている。
その年の9月2日(8月15日ではない)に日本は連合国に降伏するが、その20年後に佐藤栄作首相はアメリカを訪問してリンドン・ジョンソン大統領に会い、アメリカが核攻撃に対する日本の安全を保障しないなら、日本は核兵器システムを開発すると伝えたとされている。
この日米首脳会談でジョンソンは佐藤に対して思いとどまるように説得したというが、核兵器開発は動き始め、1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立された。1969年には政府内で核武装が本格的に話し合われ、内閣調査室を中心に調査が始まる。「非核三原則」など日本の支配層は守っていない。
その後、ジミー・カーター政権(1977年から81年)は日本の核兵器開発にブレーキをかけたが、ロナルド・レーガン政権のときに状況が変わる。1980年代の後半にはアメリカで増殖炉の予算が廃止されると、アメリカ側は日本の電力会社に目をつける。その資金で日本とアメリカは増殖炉に関する共同研究を進め、アメリカで核兵器用のプルトニウムを量産してきた高性能のプルトニウム分離装置がRETF(リサイクル機器試験施設 ※日本原研・東海)へ送られている。RETFとはプルトニウムを分離/抽出するための特殊再処理工場である。
核兵器用のプルトニウムを生産しようとしているように見えるが、この計画は1995年の高速増殖炉「もんじゅ」の事故と1997年4月の東海村再処理工場での事故でブレーキがかかっているだろう。
ただ、それで核兵器開発が止まったとは言えない。別の手段を考えている、あるいは実行している可能性もあるが、1971年から81年までSIPRI(ストックホルム国際平和研究所)の所長だったフランク・バーナビーによると、イギリスのセラフィールドで生産されて日本へ輸送されたプルトニウムは核兵器レベルの高純度だという。
勿論、アメリカの原子力産業にコントロールされているIAEA(国際原子力機関)は、アメリカ支配層が許している限り、日本が核兵器の開発をしても知らん振りだろう。東電福島第一原発の「過酷事故」でもIAEAは隠蔽に荷担している。