2015年4月6日月曜日

たった一人で脱原発の署名集めを2年 日立駅前で

 東京新聞(茨城版)が、<ひと物語>で、3・11の原発事故後7月から2年間毎週土曜日に一人JR日立駅前に立ち、脱原発の署名集めてきた角田京子さん(70)を取り上げました。
 日立市は原発メーカー:日立製作所の城下町なのでそれなりの苦労があるなかで、1万筆の署名を目指して雨の日も雪の日も駅頭で呼びかけました。
 2年後に1人の協力者が現れ、それからは仲間が増えて多いときには8人、少ないときでも3人で駅前の署名活動が出来るようになりました。
 昨年9月に仲間たちと「東海第二原発再稼働ストップ日立市民の会」を結成、し、その代表を務めています
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<ひと物語>
日立駅前で「脱原発」署名を集める 角田 京子さん(70)
東京新聞 2015年4月5日
 東京電力福島第一原発事故を契機に、作家の大江健三郎さんや落合恵子さんらが始めた「さようなら原発1000万人アクション」に共鳴し、二〇一一年七月から一人、JR日立駅前に立ち、脱原発に賛同する市民の署名集めを始めた。毎週土曜日の午後二時から三時半まで、雨の日も雪の日も街頭で呼び掛けること百五十二回、集まった署名は六千三百六十筆に達した。「私の目標は一万筆ですから、達成するまでは続けていきます」と力強く宣言する。
 
 原発は危険なものという認識は、ずっとあったが、何げなく日常を生きてきた。考えが一変したのは3・11の原発事故。「自分の国であんな事故が起こるなんて。でも起きてしまった以上、もう日本人は原発に依存することはやめなくては」。東日本大震災後、自分にできることを探し始めた時、大江さんらが脱原発を目指し一千万人署名を集めていることを知り、協力しようと決意した。
 だが、日立市は原発メーカーでもある日立製作所のお膝元でもある。「家族が日立に勤めているので、知られたら困る」と署名を断られることもあった。時には、原発に関わっていると思われる人が一方的に激しい非難の言葉を浴びせてくることも。「それでも一筆も集まらない日はなかった。人の温かさを知りました」と語る。
 
 一人で始めた活動にも二年後、協力者が現れた。私立保育園理事長だった荒川照明さん(72)だ。人脈が広い荒川さんのアイデアで、手紙で知人らに署名を依頼する活動も始めた。これを機に協力者は、さらに増え、多い時は八人、ふだんでも三人が週末の署名活動に参加した。「一人では一日二十筆が限度でしたが、おかげで多くの署名が集まるようになりました」と感謝する。
 
 脱原発を目指す市民が次第に増えていき、昨年九月、「東海第二原発再稼働ストップ日立市民の会」を発足させた。震災後、運転を停止している東海第二原発の再稼働に反対し、廃炉を求める活動にも熱心に取り組む。「退職後に体を壊したので日立市に引っ越して、のんびり暮らすつもりだったのに。毎日が本当に忙しくて…」。ぼやきながらも、表情は活気にあふれている。
 全国で集まった脱原発の署名は二月半ばで八百四十八万余りとなった。「最近は集まるペースが落ちていると聞きます。原発事故から四年がたち、人々の関心が薄れてきているのを感じます」と危機感を募らせている。「福島の人たちが四年たっても故郷に帰れないのに、国は原発を積極的に再稼働させようとしています。利益だけを追い求めて人の命や故郷を台無しにしてはいけないのです」。訴えるまなざしには、揺るぎない信念がみなぎっている。 (成田陽子)
 
<つのだ・きょうこ> 1945年2月、岩手県宮古市生まれ。日立市在住。神奈川県厚木市などで小学校教員として38年間勤務。定年退職後の2010年9月に夫とともに日立市に転居した。日立駅前での「脱原発」署名集めをきっかけに知り合った仲間たちと「東海第二原発再稼働ストップ日立市民の会」を昨年9月に結成、代表を務める。
 
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