2014年7月9日水曜日

川内原発再稼働反対 水俣は叫ぶ

 福島原発事故と最大の公害病:水俣病は、どちらも国策会社に起因して起きた大災害で、災害の発生後も政府が必死に企業を庇護し続けているなど、いろいろな点で酷似していると言われます。
 
 写真家の元夫ユージン・スミスさんとともに水俣病を世界に知らしめたアイリーン・美緒子・スミスさんは、夫が帰国後(その後死亡)も日本に残り、今は脱原発運動の闘士として精力的に「発信」を続けています。
 
 彼女がかつて経産省前で座り込みを続けているときに考えたとされる、「水俣と福島に共通する10の手口」(下記)は、見事に政府の手口の類似性を解明しています。
 
 1.誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する。
 2.被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む。
 3.被害者同士を対立させる。
 4.データを取らない/証拠を残さない。
 5.ひたすら時間稼ぎをする。
 6.被害を過小評価するような調査をする。
 7.被害者を疲弊させ、あきらめさせる。
 8.認定制度を作り、被害者数を絞り込む。
 9.海外に情報を発信しない。
10.御用学者を呼び、国際会議を開く。
 
 ここで参考までに水俣病における政府の対応を要約しておきます。
 
◇水俣病における政府対応のあらまし
 
 1952年頃から水俣地方で「奇病」が蔓延し出した中、1956年に「水俣病」の発生が公式に発表されると、九州大学は3年後の1959年に、チッソ(株)のアセトアルデヒド製造工程排水に含まれる有機水銀が原因であることを突き止めました。
 
 しかし、塩化ビニールの可塑剤の原料になるアセトアルデヒド(=当時の高度経済成長を支える基材)の製造を中止したくなかった政府・化学工業会・チッソは、総力をあげて九大の結論を否定(「有機アミン説」の創出など)し、その後さらに10年近くもチッソ(株)は製造を続け排水を流し続けました。その間に熊本では10万人以上の水俣病患者を発生させ、同様の製造設備を有する昭和電工(株)は、新潟県の阿賀野川流域に新潟水俣病を発生(1965年公表)させました。
 
 政府がようやくチッソ排水中の有機水銀が原因であると認めたのは、もはやチッソ(株)のカーバイト法によるアセトアルデヒド製造が不要になった1968年のことでした。
 政府は、その後は複数の症状がなければ水俣病患者とは認めないとして、患者認定の抑制に走り、これまでに認定された患者は約3000人で、全患者数の3%にも満たないものでした。
 
 8日の東京新聞は、「水俣病被害者互助会」「水俣病不知火患者会」のメンバーにも、アイリーンさんと同じ視線があることを伝えています。
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水俣の叫び 「再稼働反対」 川内原発40キロ圏
東京新聞 2014年7月8日 
 四大公害病の一つ、水俣病が発生した熊本県水俣市は、再稼働審査が優先的に進む九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)から四十キロ圏内にある。水俣病患者たちは、東京電力福島第一原発の事故を「水俣病と同じ、国策企業による環境破壊」と位置づけ、厳しいまなざしを向けてきた。今秋にも川内原発が再稼働となる可能性があることに「被害者より企業の救済を優先する国の姿勢は変わっていない」と警鐘を鳴らす。 (加藤裕治)
 
 「水俣病被害者互助会」会長の佐藤英樹さん(60)は二〇一一年十一月、被災地支援のため福島県飯舘村を訪ね、手にした線量計の数値に驚いた。出会った地元の老夫婦は「私たちはここに残るが、みんないなくなった。寂しい」と嘆いた。
 福島第一原発と飯舘村の距離は、水俣市と川内原発の距離とほぼ同じ。「水俣でも飯舘村のようなことが起きかねない」と実感し、再稼働に反対するようになった。妻スミエさん(58)とともに、各地の反対集会に出掛けている。
 佐藤さんのような原発に反対する水俣病患者は増えている。川内原発からの近さだけでなく、福島の人々が抱える困難に水俣と類似点を感じ、人ごとと思えないからという。
 
 水俣病患者は、初確認から五十八年が過ぎた現在でも、賠償を求める訴訟が相次いでいる。
 「水俣病不知火患者会」会長の大石利生さん(74)は子どものころ、近所の海で採った貝を食べて水俣病を患った。足のけいれんや頭痛、五〇度のお湯でも熱さを感じないほどの感覚障害に長年、苦しんできた。しかし、訴訟で和解が成立する二〇一一年まで、行政からの救済措置は受けられなかった。
 
 「国は補償に厳しい基準を設け、被害者の申請をほとんど却下してきた」。その歴史が福島で今、繰り返されているという。
 「国は水俣病の原因となる排水を出したチッソを守ろうとし、被害者を切り捨てた。福島でも東京電力を守ることばかりに国費を使っている。住民の甲状腺に異常が見つかっても、『原発事故とは無関係』と言い切る。ろくに調べようとしていない。国は同じような過ちを繰り返している」
 
 患者らの声の強まりを、水俣市で三十年以上、原発反対を訴えている永野隆文さん(59)も実感する。今年四月、再稼働に反対する市民団体「原発避難計画を考える水俣の会」を新しく立ち上げると、これまで反対運動を控えていた患者らもメンバーに加わった。
 「ほかの市民より、水俣病の患者は自分たちの経験、教訓を伝えたいという思いが強い。今まではあまり積極的でなかったが、福島の被害を見て先頭に立ちたいと考える人が増えつつある」
 
<水俣病> 
 工場から出たメチル水銀で魚介類が汚染され、食べた人らに起きた公害病。手足の感覚障害や視野が狭まるなどの症状が出る。熊本県水俣市ではチッソ水俣工場が排出源。1956年に初めて患者が確認された。国は73年に救済に乗り出したが、77年に厳しい基準を設け、それ以降は患者認定の申請を大量に退けている。患者側が起こした訴訟では国側敗訴が相次ぎ、国は95年に政治解決策、2009年に特措法による救済策を設けた。患者団体などは現在も救済は不十分としている。