2014年6月1日日曜日

福島第二原発の奇跡

 2011年3月12日福島第一原発の号機が水素爆発を起こした時わずか12キロしか離れていない福島第二原発も、第一原発と同様の危機に直面していました。
 ハフィントンポストが、当時の福島第二原発所長増田尚宏氏に聞いた驚くべき状況を、「福島第二原発の奇跡」という記事で報じました。
 
 前日の3月11日津波が襲った瞬間、第二原発の原子炉建屋なども水が侵入しました。本来は建屋内は浸水しないという想定でしたが、津波の運んできた瓦礫で防水扉が変形しそこから浸水しました。
 外部からの電源供給回線も地震でダウンしました。
 
 4つある原子炉のうち1号機は、地下の非常用ディーゼル発電機まで浸水し、停止した原子炉を冷やす機能がなくなりました
 翌3月12日早朝1号機の格納容器下部の圧力抑制室の水温は100度を突破し「ベント(空中排気して格納容器の圧力を下げる必要性が、時間の問題となっていました。ベントすれば原子炉~格納容器は守られますが、大気は汚染され、住民は多大な被曝をすることになります。
 
 被災した外部電源4回線のうち1回線だけ生き残っていたのですが、800メートル離れたところでケーブルが止まっていました。
 それは全重量が何トンもする大変に太いケーブルでしたが、それを所長の判断で200の作業員による人海戦術でケーブルを担ぎながら建屋まで運ぶ作業を始めました。そして僅か1日で成し遂げて、12日の深夜12時「ベント」のタイムリミットまであと2時間というところで、冷却ポンプ類の動力電源を回復することができました。
 この外部電源の引き回しは、通常なら機械を使っても1カ月かかる作業だということですが、所長の「マニュアルにない創造力」がそれを成し遂げました。
 2つの原発が爆発するという最悪の事態はこうして回避されたのでした
 
 第一原発事故の検証はいまだに不十分なままですが、それとは別に、福島第二原発がメルトダウンを回避できた陰にはこうした経緯があったということも、十分に検証すべきです
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福島第二原発の奇跡
 ハフィントンポスト 2014年05月31日
 2011年3月12日。東日本大震災による巨大津波の影響で、福島第一原発の一号機が水素爆発を起こしたちょうどその時。実は第一原発から直線距離にして、わずか12キロしか離れていない福島第二原発も、第一原発と同様の危機に直面していました。ひとつ間違えば、2つの原発が同時に爆発する可能性があった最悪の事態。福島第二原発ではどのように未曾有の危機を回避したのでしょうか。当時の第二原発所長、増田尚宏氏がその驚くべき状況について語りました。
 
 前日の3月11日。地震発生の際、福島第二原発では4つの原子炉が通常運転されていました。大きな揺れを検知したとき、すべての原子炉は自動停止しています。増田所長が緊急対策室に入ったのは、地震から15分がたったころでした。
 「その時は、確か3メートルという予報だったと思うのですが、みんなに『津波がくるから気をつけろ』と指示をした記憶があります」
 しかし、現実に原発を襲った津波の高さは推定9メートル。そのまま津波は敷地を駆け上がり、最高18メートルもの高さに達しました。それまで福島第二原発では津波に襲われても、建屋内は浸水しないという想定でした。
 「実際には、津波というのは瓦礫を運んでくるんですよね。その瓦礫が(建屋内)の扉に当たって扉が変形すると。それによって中に水が入ってきた。そんなことは考えていなかった
 
 津波が襲った瞬間、すでに想定外の事態は起きていたのです。津波が海辺に沿って並んだ、炉心を冷却する機能をもつ建屋内に侵入していました。
 「2メートル50センチくらいの水が入って、完全にポンプモーターは水に浸かった状況でした。ここのポンプが壊れると原子炉が冷やせなくなると。このままいくと、格納容器の設計圧力に達する可能性があるなと思いました。復旧するには1日も余裕がないかな、というくらいの上がり方でした」
 この時点で、福島第一原発と同様に、第二原発もメルトダウンの危機に瀕していたのです。
 
 4つある原子炉のうち、中でも1号機の原子炉建屋は地下に置かれた非常用ディーゼル発電機まで浸水し、3台すべて使えない状態。冷やす機能がまったくなくなってしまったのでした。
 翌3月12日早朝。1号機の圧力抑制室の水温は100度を突破しました。ちょうどこの時間、菅直人首相が第一原発の視察に訪れています。当時、官房副長官だった福山哲郎氏のノートには、『第二、根源的な問題。海の水を循環しない』と記してあります。視察中の菅首相からの言葉でした。第二原発も非常に厳しい状況だと把握した政府は第二原発の半径3キロ圏内の住民に避難指示、10キロ圏内の住民に屋内退避の指示を出します。1号機の圧力を下げるため、最後の手段である「ベント」を行う可能性があったからです。「ベント」によって格納容器の圧力は下がりますが、それは放射性物質が外に飛び散るという最悪の状況を引き起こすことでもありました。
 
 12日午後、第一原発で水素爆発が起きたとき、増田所長は緊急対策室にいました。
 「なんとなく振動がきた気がしました。後を振り向いたらテレビで爆発のシーンが見えて。なぜ爆発したのか、理解できなかった」
 第一原発と同様、メルトダウン、水素爆発の危機に直面していた第二原発で、増田所長は第一原発の状況とは異なるわずかな希望を見出しました。被災した外部電源4回線のうち1回線だけ生き残っていたのです。しかし、問題はこの1回線が炉心を冷却する建屋から遠すぎる場所にあり、建屋に繋がれていなかったことです。
 増田所長は危機管理マニュアルにない「想定外の行動」に踏み切りました。なんと800メートルも離れた外部電源の1回線を、建屋まで人海戦術でケーブルを担ぎながら運ぶという指示です。ケーブルといっても、何トンもする大変重いもの。通常なら機械を使っても1カ月かかる作業を、わずか1日で成し遂げなければならないという過酷なものでした。第二原発では200人もの作業員が2メートル間隔でケーブルを担ぎ、建屋に引っ張る作業を開始したのです。
 もうひとつ、福島第二原発には第一原発と異なる点がありました。発電施設の電源がすべて失われる、いわゆる「ステーション・ブラックアウト」によって、流量計や水位計など危機管理を行う計器がまったく機能しない状況に陥った第一原発。それに対し、第二原発は中央制御室の停電を免れていました
 「中央制御室というのは、監視と操作というのは非常に大事な2つの役割になります。それがまったくできなかった福島第一と、しっかりできた福島第二は大きな差があったと思います」
 「ベント」のタイムリミットまであと2時間。メルトダウンを目前にした12日の深夜12時ころ、作業員の決死の作業によりケーブルは建屋につながれました。第一原発と第二原発、2つの原発が爆発するという最悪の事態はこうして回避されたのです。
 
 マニュアルにない創造力をともなう現場対応、中央制御室の電源確保の重要性、外部電源の位置。福島第二原発がメルトダウンを回避した経緯をたどると、安全管理について多くのポイントが見えてきます。しかし、現在、第二原発における対応はおろか、第一原発事故の検証でさえ不十分なまま、再稼働の議論が進んでいます。原発の再稼働論議の前に、検証すべきことがまだまだ多く残ってるのではないでしょうか。
 
 「報道ステーションSunday」より