2017年3月13日月曜日

3・11浪江町民 高線量地と知らず原発30キロ圏の津島地区に避難 

 福島第1原発で爆発事故が起きた12日~15日の4日間浪江町民は政府や県から放射能汚染状況について何の情報提供もない中で、同町内で原発から30キロの地点にある津島地区に避難しました。
 国から与えられた唯一の指示は福島第一原発から30キロ以上離れるということだったので、同町内で原発から北西方向に30キロと最も離れていた津島地区を選んだのでした。(飯館村は津島地区から更に北西に進んだところにあります)
 
 しかし第一原発爆発の気流(プルーム)は北西方向に流れ、24号機が爆発した1415あいにく雨と雪に見舞われたため、濃厚な放射性物質が地表に降り注ぐことになりました。
 文部科学省が15日夜に津島地区で測ったモニタリングカーの計測値は、毎時270330マイクロシーベルトで、3時間そこにいただけで年間の被曝限度量1mSvに達するという高濃度でした。
 人々は何も知らずに、雪と雨の中で給水車からの給水を受けるために行列をしていたと伝えられています。
 
 SPEEDIは地震の数時間後には稼働していたので、津島地区が高濃度に汚染されていることは当然把握されていましたが、その情報はもたらされませんでした。それどころか当時の菅政権は、逆に、気象庁が風向き・風速を公表するのを禁じました。一体なぜそんなことをしたのか、彼らはいまだにその釈明をしていません。
 
 それが事後にどう総括されたのかは大きな問題ですが、原子力規制委はなぜか今後も避難用にSPEEDIを使わないことを決めています。これもまた実に不可解なことです
※ 2015年5月17日 高放射線量下で住民を長期間放置 規制委の考え方
 
 3・11における浪江町民の避難行動について河北新報がふり返りました。
 
お知らせ 
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<回顧3.11証言>「情報なし」沢水で米を炊く
河北新報 2017年3月10日   
 福島第1原発事故で福島県浪江町の住民が集団避難した同町津島地区は、高濃度の放射性物質が降り注いだ地域だった。だが、放射性物質が大量に漏れた情報は国や東京電力からもたらされず、住民は自分の身に危機が迫っていることを知らずに事故後の4日間を過ごした。(勅使河原奨治)
 
◎福島・浪江町民、高線量地と知らず避難(上)
<発令>
 2011年3月11日午後2時46分。福島県浪江町の馬場有町長は町長室で激しい揺れに遭った。災害対策本部を設け、防災無線で町民に津波からの避難を促した。
 浪江町は横に長い。東は太平洋に面し、西は海岸線から30キロ以上内陸に食い込んでいる。第1原発の立地する双葉、大熊町は南に位置し、浪江町の東半分は原発事故後に警戒区域に指定された。
 11日は沿岸部の町民らが続々と役場に避難してきて、役場は炊き出しや毛布の準備に追われた。
 深夜、町長は作業が一段落し、テレビのニュースに目を向けた。第1原発が原子炉を冷却できなくなったとして、政府が緊急事態宣言を発令したと告げていた。
 翌12日午前5時44分。福島県は浪江町の一部を含む10キロ圏内の住民に避難指示を出した。テレビの情報だけを頼りに町は災害対策本部を原発事故対策本部に切り替えた。
 
<渋滞>
 町は12日午前10時ごろ、町民を津島地区に集団避難させる方針を決めた。第1原発から約30キロ北西にあり、町内で最も離れていたからだ。
 役場から津島地区へつながる国道114号は避難者の車で埋め尽くされた。同町の無職横山洋子さん(70)は「普段なら20分で着くのに4時間かかった」と振り返る。
 元東電社員の男性(75)は家族を捜すため渋滞と反対方向に車を走らせた。対向車線の車列に並ぶ知人から「原発が爆発する」と忠告されたが、「ばか言ってんじゃない。原発は安全だ」と相手にしなかった。
 津島地区には地元住民の6倍近い約8000人の町民が押し寄せた。小中学校や高校は避難者であふれかえった。学校に入れなかった人は民家で世話になったり、車中泊したりした。
 
<放出>
 津島地区は上下水道が整備されていない。13日夕に支援物資の水が届くまで、井戸水や沢水で炊いた米で作ったおにぎりが支給された。畑には土を掘り起こしただけのトイレが幾つもできた。
 避難者は二本松市に再避難する15日まで津島地区に滞在した。その間、第1原発は12日に1号機、14日に3号機が水素爆発。15日に2、4号機も爆発し、大量の放射性物質が大気に放出された。
 放射性物質は風で津島地区のある北西方向に運ばれた。2~4号機が爆発した14、15日は雨と雪に見舞われ、放射性物質を付着させながら降り注いだ
 避難者は自分が放射性物質に襲われることを認識できないでいた。「国や東電から何の情報も来なかった」(馬場町長)からだ。
 避難者が情報の枠外に置かれたまま、津島地区の放射線量は見る見る上がった。文部科学省が15日夜に津島地区で測ったモニタリングカーの計器は毎時270~330マイクロシーベルトを指し示していた。=2011年11月9日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。
 
 
<回顧3.11証言>放射能汚染 非公表の“非情”
河北新報 2017年3月10日   
 福島第1原発事故で福島県浪江町の住民が集団避難した同町津島地区は、高濃度の放射性物質が降り注いだ地域だった。だが、放射性物質が大量に漏れた情報は国や東京電力からもたらされず、住民は自分の身に危機が迫っていることを知らずに事故後の4日間を過ごした。(勅使河原奨治)
 
◎福島・浪江町民、高線量地と知らず避難(下)
 福島第1原発事故で、国や福島県、東京電力は放射能汚染情報を明らかにせず、浪江町民を放射性物質が拡散した危険な地域に置き去りにした。「公表基準が確立されていなかった」「情報の信頼性が不十分と判断した」。それぞれの立場で釈明するが、非公表によって、一時的にでも住民の生命と健康が危険にさらされる状況に追い込んだ責任は重い。
 第1原発の敷地には放射線量を測るモニタリングポストが複数箇所に設けられている。東電は1号機が爆発した2011年3月12日午後3時36分の約20分前、浪江町津島地区の方向を示す北西側のポストで測定を開始。約2分ごとにデータを取り、翌13日午前9時までに限っても548回の測定値を得た。
 東電は13日午前9時以降に測った値は明らかにしたが、それまでの548回の分は5月28日まで公表しなかった。548回の中で最高値だった3月13日午前8時33分の毎時1204マイクロシーベルトも長らく世に出なかった。
 東電は非公表の理由として、公表の判断基準が不明確だったことや広報部にデータが届かなかったことを挙げる。浪江町は東電と1998年、原発トラブルの際に通報連絡を徹底する協定を結んだが、全く機能しなかった。
 最新技術で放射性物質の拡散を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」も、国と福島県のデータ公表の不手際で宝の持ち腐れになった。
 SPEEDIを運用する財団法人原子力安全技術センター(東京)は地震発生の数時間後、放射性物質の拡散予想の解析を開始。浪江町津島地区のほか、飯舘村、川俣町など北西方向の地域に広がっていたことが分かった
 解析結果は3月12日午前3時から1時間おきに福島県庁にメールで送られた。しかし、県災害対策本部に受信確認の連絡はなく、メールの存在に気付く職員はいなかった。SPEEDIの端末に接続できる県庁の設備が地震で使えなくなる不運も重なった。
 対策本部は13日朝、国が前日に避難指示を半径20キロの同心円状に広げた根拠を確かめるため、SPEEDIの解析結果をファクスで取り寄せた。これまでの防災訓練では拡散予想を基に避難域を決めていたからだ。
 この時点で県も放射能汚染が北西方向に広がっていることを認識したが「データが古く、放射性物質の密度も不明だ」と判断し、公表を見送った
 SPEEDIの解析結果が県民に知らされたのは3月23日だった。
 浪江町民が津島地区に避難したのは3月12~15日。SPEEDIの解析を生かして、一刻も早く同地区を離れるよう促されることはなかった
 「時機を逸した情報は何の価値もない。町民は人災の被害者だ」。馬場有町長は怒りをあらわにする。
 津島地区に避難した無職谷島政己さん(89)は「避難中に解析結果が出ていればすぐに別の所に移り、余計な被ばくを避けられた。行政も東電も住民を軽く見ている」と憤っている。=2011年11月9日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。