大熊町は平成28年度事業として、2011年3月の東日本大震災と東電福島第一原発事故の後、全町避難を経験した町の状況を「大熊町震災記録誌~福島第一原発、立地町から」にまとめる作業に取り組み、2017年4月にその記録誌が完成しました。
記録誌の冒頭に載った渡辺利綱大熊町長のあいさつ文がハフィントンポストに掲載されましたので、紹介します。
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「『原発は安全』という考えが染みつき、危険性への認識も薄れていました」大熊町長・渡辺利綱が語った震災からの6年
ハフィントンポスト 2017年06月14日
この震災により、またその後の避難生活の中で亡くなられた方々に深く追悼の意を表すとともに、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
このたび、震災から6年が経過し、記憶と資料の整理ができたことで、これまでの軌跡を記録誌にまとめることにいたしました。
記録として残すことで、震災と原発事故の風化を防ぎ、事故を起こした原子力発電所の立地自治体である大熊町の現状と対応を、今後の原子力行政の参考にしていただけるのではないかと考えております。
あの日、揺れの大きさに驚きながらまず心配したことは津波でした。役場2階ロビーに災害対策本部を設置し、地震、津波対応を指示しました。
テレビではずっと東北沿岸部の津波の映像が流れていて、大きな被害が予想されました。正直に申せば、原発についてはその時、あまり頭にありませんでした。
町に立地する東京電力福島第一原子力発電所の状況については、地震発生後、職員から「停止した」と報告がありました。原発の安全対策は「止める、冷やす、閉じ込める」が3原則。止まりさえすれば、冷やす、閉じ込めると順に進むと思っていたのです。
当時の原発の状況では「念のため」という言葉が頭に残っており、危機的な状況というより、万が一に備えているという受け止めでした。
12日早朝、細野豪志内閣総理大臣補佐官(当時)から全町避難を伝えられても、割と冷静に「2、3日くらいで帰れるだろう」と考えていました。町民と同じように、私も前日から役場に泊まり込んだままの姿で町を離れました。
福島第一原発が稼働を始めて約40年。トラブルはあっても、全町避難や原発の爆発など全く想定していませんでした。
訓練や備えの面でもそうです。今回の事故で、避難に使った国道288号は渋滞しました。事故前から県や国との間で道路の拡張が話に上がっても、「避難対策を取ればいたずらに町民の不安をあおる」と言われれば納得してしまう。
「原発は安全」という考えが染みつき、誘致当初はあった危険性への認識も薄れていました。それが40年も原発立地地域で生活する、共生するという危うさだったと今は思います。
避難の際、国や東電が持っていた危機感が町に正確に伝わっていれば、せめて町民に「数日分の生活必需品と貴重品を持って出て下さい」と伝えられたかもしれません。
しかし、危機的状況だと分かれば、町民も大騒ぎになり、爆発前のスムーズな避難はできなかった可能性があります。非常に難しいところですが、いずれにせよ原発の安全神話を過信していたことは何よりの反省点です。
避難先の田村市総合体育館では、何度も夜中に「悪い夢を見た」と思って目覚めました。そして横を見ると教育長や町議会議長が寝ている。「夢ではなくこれが現実なのだ」と思いました。
毎朝、「今日はどんな一日になるのか」とその日のことすら見通せませんでした。町として町民に説明する必要があるので、国の担当者に「今、我々が置かれている現状は毎日、責任持って報告して下さい」と言いましたが、結局、主な情報源はテレビでした。
確たる情報がない中、町民も職員も、また受け入れ先の自治体の皆様も大きな不安を抱えていました。
パンなどの食事が続いたある日、「今日はご飯とお味噌汁です」というアナウンスに避難所内から歓声が上がったこと。避難から5日ほど経って自衛隊が風呂を設置してくれた時、浴場の中から久しぶりに町民の笑い声を聞いたこと。
田村市の方が「何の援助もできないけど」と言いながら、軽トラックに米と灯油を積んで持ってきてくれたこともありました。そのような一つ一つの出来事をうれしく思うと同時に、置かれた状況の厳しさを実感しました。
卒業式ができない状況だった小学6年生のために田村市総合体育館で開いた「卒業を祝う会」では、喜びや励ましの声を多くもらう一方で、「田村市の学校でも卒業式や終業式を実施できないのに」という指摘もいただきました。
県外に避難し、報道で会の様子を見たという保護者の方からは「自分の子供は祝ってもらえない。悲しくテレビを見つめました」という電話をもらいました。
福島第一原発の吉田昌郎所長(当時)から電話を受けたのも体育館でした。吉田所長は「町長、こんな事態になって申し訳ない。収束に向けて取り組むからよろしくお願いします」と声を振り絞るように言いました。
大きな声を出して物事が解決するのなら100回でも怒鳴りますが、この時、怒る気持ちにはなりませんでした。何が正しいのか、何をすべきなのか、正解のない問いを必死に解くような日々でした。
職員たちは、自身も被災し、家族の所在確認もままならない状況で、毎朝5時頃から深夜2時頃まで働いていました。応援に来てくれた医師から「このままでは職員が倒れてしまう」と言われましたが、十分に休ませてやることはできませんでした。
会津若松市にお世話になることを決めたのは震災から約2週間後。早い判断だったと思っていますが、その背景には町民に対するケアはもちろんのこと、職員に少し落ち着いた環境で仕事をしてほしいという思いもありました。
結局は、会津に来てからも震災で一変した業務を前に、苦労をかけることになるのですが。
町の復興については、遅いとお叱りを受けることも、よくここまで来たとねぎらっていただくこともあります。これで良いのかと自問自答の日々は現在も続いています。
ただ、震災6年目に特例宿泊までこぎ着けたことは、やはり職員が一丸となって復興に向けて取り組んできた成果だと自負しています。職員一人一人には自信を持って業務に当たってほしいと願います。
また、受け入れ自治体をはじめ様々な方々に支援をいただいています。皆様の支援なしにこの6年はありませんでした。心から感謝いたします。
6年という月日は、町民にとってただ帰還を待つには長すぎたと思います。ただ、大熊の先人たちも飢饉などに遭いながら、時間をかけて血のにじむ努力をして、歴史を築き上げてきました。
もう一度、町を活気づかせるために、今、自分たちが汗をかいてその基盤を作る時だと思います。次の世代に繋げるという意欲があれば、必ず復興できると考えています。
残念ながら事故は起きた。それならば事故で得た経験や知見を糧として、魅力ある町の復興に全力を尽くす所存です。
2017年3月
これは渡辺利綱・大熊町長が記録誌冒頭に記したあいさつ文です。町長は2007年に初当選。1期目の終盤、秋には町長選を控えていた2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。
地震、津波対応に追われた3月11日。そして翌12日早朝には東京電力福島第一原発の事故により、全町民が町外へ避難することを余儀なくされました。
当時の町の人口は約1万1500人。みんなが1カ所に固まって避難することは不可能で、町民は隣の田村市を中心に、町が把握するだけでも20カ所を越える避難所に分散しました。
12日午後に第一原発1号機が水素爆発。その後も14日に3号機、15日に4号機と爆発が相次ぎ、早期帰還の望みは薄くなっていきました。
着の身着のままの避難所生活で町民や職員に疲労の色が深まる中、町は「みんなでまとまって少しでも落ち着ける環境が必要」と第一原発から約100キロ離れた福島県会津若松市を拠点に定め、同市の支援を受けて市内の旧県立高校舎に「大熊町役場会津若松出張所」を開設しました。
同年4月5日、出張所の開所式で町長は「1日も早く大熊に戻れるよう、心を一つにしていきたい」とあいさつしました。
それから6年が経過し、町長は現在3期目。いまだ帰還は叶わず、大熊町役場は会津若松市を含め県内4カ所に事務所を構え、業務を行っています。
(記録誌をまとめた福島県大熊町企画調整課・喜浦遊)
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