2017年9月20日水曜日

20- 原発避難 ふるさとを返して

 福島原発事故から6年半が経ちました。千葉県などに避難した18世帯47事故から2年後に提訴し、国と東電に計約28億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日に千葉地裁で言い渡されます
 かけがえのないふるさとを失い、大切な人たちとの離別を強いられながら、裁判を闘ってきた原告たちの今の思いを、東京新聞が3回に分けて紹介しました
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原発避難 ふるさとを返して>(上)「今も帰りたい」募る思い 
      双葉町から避難の石川夫妻
東京新聞 2017年9月17日
 二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故を受け、福島県双葉町から八千代市に避難している石川茂男さん(89)と、はきのさん(81)夫妻は、六年半に及ぶ避難生活で体調を崩し、将来への不安を抱えている。千葉地裁の原発避難者訴訟の原告として、国と東電に苦しみを訴えてきた夫妻は「事故で何もかも無くし、もう帰れない。東電や国はきちんと補償してほしい」と願っている。

 双葉町は、公務員だった茂男さんの故郷。二人は原発事故が起きるまで三十年以上、暮らしてきた。原発事故直後、福島県内の避難所を転々とし、約一週間後、長女が暮らす八千代市に避難した。現在は同市のマンションで、長女と三人で暮らす。
 茂男さんは避難所で暮らす間に脱水症状になり、八千代市に移った後の約二カ月、入院した。退院後に持病のぜんそくが悪化。足も悪くなり、今は外出時に車いすを使う。要介護4と認定され、週に三回、介護施設のショートステイを利用。双葉町の自宅周辺は帰還困難区域だが「今も帰りたい」と漏らす。

 はきのさんは、茂男さんの食事の支度や介護をしている。約四年前から足のしびれがあり「脊柱管狭窄(きょうさく)症」と診断された。昨夏は下痢が続いて体重が七キロ減った。「知り合いもいなくて毎日、テレビとにらめっこ。これからどうなるかなって考え込んじゃう」。茂男さんと週に一度、介護施設にリハビリへ行き、利用者らと話して気持ちを明るくしようとしている。
 はきのさんは原発事故前、双葉町の自宅で生け花教室を開いていた。庭はユリやチューリップなど季節ごとに色とりどりの花が咲き、松の木もあった。多くの生徒が通い、近所の人もよく訪ねて来た。
 これまで三回ほど双葉町に一時帰宅した。玄関にあった花は枯れ果て、室内は家具が散乱し、ネズミに荒らされていた。自宅近くの墓に、約十三年前に病死した長男の遺骨を残しているのも気がかりだ。生け花教室の生徒や友人らも、各地に避難するなどして散りぢりに。電話で連絡を取り合える人はいるが、再会できた人は、少ない。
 はきのさんは約三年前に一時帰宅したのを最後に、体調不良などで双葉町には行くことができない。「双葉のことを忘れたことはなく、毎日、友だちを思い出す。会いたい」と涙を流す。大好きだった生け花は、今も手につかない。
 はきのさんは一五年一月の口頭弁論に出廷。「亡くした息子の供養も十分にできず、穏やかで暮らしやすかった街が荒れてしまい、つらい」と訴えた。四年半に及ぶ裁判を振り返り「長かった。いい結果が出ればいい」と話している。 (中山岳)


<原発避難 ふるさとを返して>(中)「原発事故なければ」 
       南相馬市から避難の菅野さん
東京新聞 2017年9月18日
 「人間はどのように生き、どのように死んでいくかを自身で決める自由があり、権利がある。私たちの六年間の避難生活が報われるよう、今後このような思いをする人が出ないようにと祈っています」
 一月三十一日、千葉地裁の二〇一号法廷。東京電力福島第一原発事故を受け、福島県南相馬市鹿島区から千葉市に避難した菅野美貴子さん(62)は、原発避難者訴訟の原告の一人として、そう意見陳述した。一緒に避難した夫の秀一さんは二年前、六十四歳で亡くなった。
 菅野さんは鹿島区出身。同郷の秀一さんと一九七三年に結婚し、息子二人を育てながら秀一さんと石材店を切り盛りしてきた。お年寄りや農協、銀行の職員らがお茶や昼ご飯の際に立ち寄り、客が来ない日はなかった。「楽しかったよ。鮮明で忘れられない」

 東日本大震災と原発事故の直前、秀一さんは長年の仕事の影響でヘルニアを患った。身体障害者手帳の交付を受け、車いすで生活をしていた。宮城県で暮らす長男(42)夫婦が南相馬市に移り住み、石材店を継ぐ計画だった。
 思い描いていた生活は震災と原発事故で一変した。三百三十平方メートルの自宅兼工場のうち、自宅が全壊。秀一さんは車いすでの生活に加え、糖尿病の治療が必要だったことから、南相馬市の指示で、震災から十二日後に千葉市の老人ホームに避難した。二〇一一年七月には現在暮らす千葉市の家に引っ越した。だが、秀一さんは心筋梗塞や肺炎などを発症し、入退院を繰り返すようになった。
 南相馬市鹿島区は国の避難指示区域に指定されなかった。幸い、石材店の工場の機械は使うことができたため、仕事を再開することもできた。だが、秀一さんの治療のことを考え、ふるさとには戻らないと決め、一二年八月に自宅と工場を壊した。
 秀一さんは南相馬市のことを話さなくなり、食欲もなくなった。「ゼロからスタートした工場だった。思い入れがいっぱいだったと思う」。最期は寝たきりとなり、一五年八月に腎不全で亡くなった。
 「原発事故がなかったら、お父さん(秀一さん)の具合が悪くなかったら、南相馬で再建できていたのでは」との思いは消えない。判決後、宮城県と横浜市で暮らす二人の息子のいずれかの元で暮らすつもりだ。「何も考えず、ゆっくりしたい」
     
 訴訟の原告やその家族でつくる「原告と家族の会」の副代表を務める瀬尾誠さん(65)は=長野県飯綱町=は会社を早期退職し、当時住んでいた鎌ケ谷市から福島県浪江町に移住した。浪江町に妻(65)の実家があり、年老いた義父の米作りを手伝うためだった。
 ところが、移住してわずか一年後に原発事故が発生。浪江町は避難指示区域となり、描いていた夢は絶たれた。
 瀬尾さんは今、飯綱町で米の無農薬栽培に取り組む。「千葉の原告だけでなく、福島県から各地に避難した人々が少しでも多くの賠償を認めてもらえる判決がほしい」
 (黒籔香織、美細津仁志)


<原発避難 ふるさとを返して>(下)「地域や人間関係 崩壊」
       「ふるさと喪失」の慰謝料も請求
東京新聞 2017年9月19日
「何代も続いた家がこんな形で消えてしまう無念さは筆舌に尽くしがたい苦悩で、生涯、消えない」。今月二日、千葉市内で開かれた原発避難者千葉訴訟の原告や支援者らが参加した集会で、福島県浪江町議を十六年務めた原告の男性(87)は、声を絞り出した。
 男性は原発事故で浪江町から長女の住む鎌ケ谷市へ避難し、現在は横浜市で暮らす。浪江町の自宅には、先祖の位牌(いはい)や両親、妻らの遺品など、多くの思い出の品を残したままだ。事故前は生きがいだった稲作も今はできず、米を買わなければならない。
 男性は、原発事故直後に避難者が十数万人に上ったとし「家族はばらばら、地域の歴史、文化、伝統などが崩壊の危機にさらされた。解散したコミュニティーも多くある」と訴えた。
 全国で約三十件の同種訴訟が起こされており、最初の判決となった三月の前橋地裁判決は、津波は予測できたとして、国と東電に賠償を命じた。
 前橋訴訟の原告は、避難を強いられた精神的苦痛に対する慰謝料として一律に千百万円を請求した。これに対し、千葉訴訟の原告は、避難生活に伴う慰謝料の他、自然豊かな故郷での生活や仕事、人間関係を奪われた「ふるさと喪失」の慰謝料として一人二千万円を請求している。
 原告の弁護団長の福武公子弁護士は「判決で、生活の再建ができるようなきちんとした賠償を認めてほしい」と話す。
 二〇一三年の提訴から四年半。提訴時に十八世帯四十七人だった原告のうち、これまで六人が亡くなった。原告の資格を受け継いだ遺族を含む四十五人が、二十二日の判決を迎える。
 弁護団によると、原告には国の避難指示区域内からの避難者だけでなく、区域外から避難した一世帯四人なども含まれる。この訴訟とは別に、避難指示区域外から千葉県に避難した六世帯二十人が一五年六月、損害賠償請求訴訟(第二陣訴訟)を起こし、現在も千葉地裁で審理中だ。
 避難指示区域外からの避難者に対し、福島県は今年三月いっぱいで、家賃補助を含めた住宅の無償提供を打ち切った。
 千葉県によると、打ち切り後の四月時点で、県内に暮らす区域外からの避難者は百九十五世帯。家賃などの金銭負担が重い人も少なくない。支援団体「避難の協同センター」(東京)の瀬戸大作事務局長は「母子家庭などは特に金銭的に問題を抱え、支援が必要」と指摘する。
 原告たちは、避難指示の区域内外で区別せず、全員に同等の賠償を求めている。原告や支援者たちが公正な判決を求めて集め、千葉地裁に提出した署名は、これまで五万百八十八人分に達した。
 原告団代表の遠藤行雄さん(84)は「判決で勝利することで、志半ばで亡くなられた原告の方々に報いたい」。ふるさとを奪った原発事故に対する国と東電の責任を明確にし、被害を償ってほしい-。原告たちは同じ願いを胸に、司法の救済を待っている。 (中山岳、美細津仁志)