2017年9月24日日曜日

「こんなことでは終われない」 避難者訴訟 千葉地裁判決

 原発避難者訴訟の千葉地裁判決に対する原告たちの無念の気持ちを、産経新聞が2本の記事で報じました。
 福島原発告訴団が都内で開いた集会の記事も併せて紹介します。
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「こんなことでは終われない」87歳男性 今後も闘い続ける姿勢
産経新聞 2017年9月23日
「がっかりだ」。原告団の1人で、福島県浪江町から鎌ケ谷市に避難し、現在は横浜市に住む男性(87)は怒りを隠さずにこう語った。事故で故郷を失い、現在まで続く苦しみの救済を司法に求めたが、満足のいく結果ではなかった。
 男性は同町に代々続く家の生まれ。第二次世界大戦で学校教師だった父と次兄は開拓団員として旧満州に渡り、その後死亡。海軍に入隊した長兄も戦死。父と2人の兄という働き手を失った一家は終戦後、貧困に苦しみ、「私が家を守り家族を養わなければならなかった」と振り返る。
 そのため稲作や養蚕などでありとあらゆることに脇目もふらず働いた。地域の発展のため、区長を4期8年、町議を4期16年つとめた。「地域のため、私なりに大変努力した」。戦争で失った父や兄、地域の戦没者のために町戦没者遺族会会長も約20年つとめてきた。
 国のために亡くなった父や兄と同様に、事故前は地域の発展のために、国や東電が「絶対安全安心」として推進する原発を「信じてきた」と話す。
 だが、絶対安全安心だったはずの福島第1原発で事故が起き、先祖から受け継ぎ、自身も発展のために尽くした故郷を離れることを余儀なくされた。現在も帰還困難区域に指定されている自宅には、今も家族の遺品などが眠り、持ち帰ることは叶わぬままだ。
「築き守ってきた財産の全てを失い、生きがいだった稲作もできない」と言葉に悔しさをにじませる。
 今年3月末に浪江町は旧避難指示解除準備区域と旧居住制限区域が解除されたが、町の面積の大半は帰還困難区域のままで、解除された地域も帰還者はわずかで、事故前の風景は戻っていないという。
 事故で受けた苦悩を「生涯決して消えることのない」として、約4年間闘い続けてきた。
 迎えた判決日。男性は判決前には穏やかな表情を浮かべていた。しかし判決を聞き、顔には強い怒りがにじんだ。
三権分立を信じていたのに、裁判官は行政にベッタリの判決をした」と痛烈に批判。今後も故郷を取り戻すため、「こんなことでは終われない」と、法廷で闘い続ける姿勢をみせた。(長谷裕太)


「お父さんに負けたなんて言えない」 
原発事故後、千葉に避難した菅野美貴子さん
産経新聞 2017年9月22日
 「お父さんに負けたなんて、言えないよ」。千葉地裁での判決後、福島県南相馬市から千葉市へ避難している原告、菅野美貴子さん(62)は、2年前に64歳で他界した夫の秀一さんを思い、つぶやいた。

 昭和48年に結婚し、夫婦で石材店を営んできた。2人の息子にも恵まれた幸せな毎日は、平成23年3月の東日本大震災と原発事故で一変する。市の避難勧告を受け、自宅兼石材店を離れた。
 体が不自由だった秀一さんの受け入れ先があると聞き、千葉市の老人ホームに避難。7月に現在の自宅に移った。「放射線量が高く故郷には戻れない」と、店は24年夏に閉めた。故郷や生業を奪われた憤りから、訴訟で闘うことも決めた。
 孤独な避難生活に「前向きにならなくては」と思い立ち、25年1月からは秀一さんのヘルパーだった女性とともに市内で居酒屋「しのぶ」を営む。「お客さんはいい人ばかり」。徐々に楽しみも見つかった。

 宮城県多賀城市と横浜市に住む2人の息子は「いつでも来ていいよ」と言ってくれるが、今も千葉市を離れないのは、避難生活を支えてくれた友人がいるからだ。「人間がどのように生き、死んで行くかを自身で決める自由がある」。法廷では、こう意見陳述した。