中日新聞が、浜岡原発立地時に浜岡町長を務めた鴨川義郎氏にインタビューしました。
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浜岡建設受け入れ50年 原発マネー依存 今も/静岡
中日新聞 2017年9月25日
旧浜岡町(御前崎市)が中部電力浜岡原発の建設を受け入れてから二十八日で五十年を迎える。地元は事故やトラブルと向き合いながら、原発が落とす交付金などに頼ってまちづくりを進めてきた。しかし、二〇一一年三月の福島第一原発事故以降、南海トラフ巨大地震の想定震源域に立つ浜岡原発は全炉停止したまま。先行きは見通せない。
町は一九六七(昭和四十二)年九月二十八日、安全確保などを条件に原発計画を受け入れた。約八年半後に1号機が営業運転を開始。二〇〇五年一月までに2~5号機も続いた。
半世紀前は、農業が産業の柱だった旧浜岡町。これまでに約五百億円の電源三法交付金が入った。総合病院や図書館などが次々と建ち、道路も整備されて街並みはみるみる変わった。ただ、原発誘致に携わった元浜岡町長の鴨川義郎さん(90)は「裕福になり、職員や住民に知恵がなくなった」と、原発マネーに依存するあまり、自主的な行政運営能力が劣化した状況を憂う。
御前崎市の一七年度一般会計当初予算百七十一億円に占める原発関連収入の割合は27%に上るが、固定資産税の減少などに伴って減っている。3、4号機の再稼働を巡る原子力規制委員会の審査は、優先した4号機の申請から三年半を過ぎた今も序盤の段階。耐震設計の目安となる地震の揺れなどについて、規制委と中部電力の間で議論が続いている。
(古根村進然)
◆職員や住民自主性失う 鴨川義郎元浜岡町長
あの日から50年。「原子の火」がすべて消え、岐路に立つ町で、長く浜岡原発を見続けた住民たちに今の思いを聞いた。
原発の建設を受け入れた当時、福島のような事故が起きるとは思っていなかった。責任は東電にあるだろう。原発立地自治体は財力が華々しかったが、住民は最後、先祖伝来の土地を離れて散り散りになっちゃった。気の毒だよ。
福島事故後、浜岡原発再稼働の同意範囲を県と御前崎市のみとせず、周辺自治体にも求める声が大きくなった。
福島という大きな事故があったでしょ。大勢の人が納得しなきゃ再稼働できない。全部が全部同意というわけにはいかんが、(五キロ圏内の)牧之原市が同意の範囲に入るのは当然だね。
一九六七年四月の旧浜岡町の町長選。当選した故河原崎貢さんはその翌月に初めて原発計画を知った。町企画室長だった鴨川さんとともに、建設候補地の佐倉地区出身で産経新聞社長などを務め「財界四天王」と称された故水野成夫さんに相談に出向き、「泥田に金の卵を産む鶴が舞い降りたようなもの」と受け入れを勧められた。
お茶、たばこ、サツマイモ。町の産業は農業だけだった。貧しいねぇ。新しい事業も道路の舗装も、河川の改修もできません。職員は使用済みの封筒の裏表をひっくり返し、議員に出す通知に使っていた。私は原発計画を、元町長の父啻一(ただいち)から町長選前の六七年三月ごろに聞いていた。町長選の争点にならないように「言うなよ」と口止めされてた。産経新聞に載った七月頃から町民が騒ぎ出した。役場で化学を知っていたのは、専門学校で農芸化学を学んだ私ぐらい。町民には、原爆じゃなく、管理された原子力だから安全だと伝えるのが大変だった。
浜岡原発1号機が稼働する中、マグニチュード8程度の地震が起きるという東海地震説が七六年に発表。七九年の米スリーマイル島原発事故、八一年には敦賀原発1号機放射能漏れと問題が集中、浜岡原発にも地元住民から冷ややかな視線が注がれた。
八二年に着工した3号機増設の時が一番大変だった。生活もまだ不便で、増設するなら町立病院を造らなきゃという気持ちがあった。中電からは十八億円かな、病院建設費の足りない分をもらった。
原発は五基できた。市は交付金の恩恵を受け、浜岡原発で働く約千五百人が市内で暮らしている。
依存している。金がなければ何とかして財源を生みだそうとするが、あるからのうのうとするわけだ。職員も住民も。原発がないと日本はやっていけない。地域発展や国策のために協力してきた。浜岡は防潮堤を造り、福島のようにはならないと思う。でも、河原崎町長も言っていたが、一生十字架を背負っている。何かあれば、当時の責任者として、受け入れた側の責任を感じる。(浜岡原発取材班)
<かもがわ・よしろう> 1927年7月19日、旧浜岡町佐倉出身。同町役場企画課長、総務部長を経て75年、同町長に就任。87年まで3期務めた。職員時代を含めて浜岡原発1~4号機の新増設に携わった。父啻一さんも60~63年に町長だった。