11人の死傷者を出した関電美浜原発3号機の蒸気噴出事故から15年となる9日、「福井県原子力安全専門委員会」委員長として発生直後から検証に携わり、今春委員長を退任した中川英之福井大名誉教授に、中日新聞が事故の教訓と安全への課題を聞きました。
中川氏は、事故は関電が利益を優先し「危険性があれば原発を止める」という考えがなかったのが問題だったとし、火山灰降灰の対策としても「何より1ミリでも降灰があれば原子炉を止めることだ」と述べました。
関電は以前に、10センチの降灰があっても非常用のディーゼル発電機のエアーフィルターを含めて問題ないと回答をしていますが、それはセントヘレンズ火山噴火の事例に照らしても納得できるものではなく、なぜ安全といえるのか根拠がまったく不明です(その後降灰予想量が20センチに倍増したため再検討中です)。
原子力規制委はしっかり審査すべきです。
(関係記事 下記他多数)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
原発、安全最優先継続を 前県専門委員長・中川氏インタビュー
中日新聞 2019年8月9日
五人が死亡し、六人が重傷を負った関西電力美浜原発3号機(美浜町)の蒸気噴出事故から、九日で丸十五年となる。有識者が県内の原発の安全対策を議論する「県原子力安全専門委員会」委員長として発生直後から検証に携わり、今春、委員長を退任した中川英之福井大名誉教授(76)に、事故の教訓と安全への課題を聞いた。
-事故直後の現場に入った。
翌日に当時の西川一誠知事と共に美浜3号機に向かった。湯気の立ちのぼるタービン建屋内はがれきが散らばり、蒸気が噴出した部分は厚いはずの配管がぺらぺらでめくれ上がっている光景には衝撃を受けた。こんな場所に大勢の作業員を入れていて、巻き込まれて犠牲になったのは悲惨だった。このままでは関西電力に原発を動かす資格はないと感じた。
-直後に発足した原子力安全専門委員会で、事故の検証に当たった。
物理的な事故原因を解明すること以上に大事だったのが、関電の安全に対する姿勢を正すこと。関電の安全に対する考え方の甘さが事故の最大の原因だった。
問題の配管が点検から漏れていることは事故の一年前に分かり、事故一カ月前にも関電内で把握されていたが「次の定期検査で対応すればいいだろう」と引き延ばした。利益を優先し、「危険性があれば原発を止める」という考えがなかったのが問題だった。
-事故後、二〇一一年には東京電力福島第一原発事故が発生した。
福島事故も、東電に安全重視の感覚がなく、予想が甘かったことで、防げる事故を防げなかった。関電も美浜の事故がなく平穏に来ていたら、さらに大事故を起こしていたかもしれない。
-関電の体質は変わったか。
専門委では事故から二年間かけ、関電の社員一人一人まで安全最優先の姿勢になるよう、取り組みを一つ一つチェックした。安全優先の姿勢に変わり、十分な体制が築かれたと判断した。
-事故から十五年。関電内で教訓が風化する恐れはないか。
福島事故を経て設置された原子力規制委員会で、厳しい審査が導入された。現場でのチェックが重視され、緩みを見逃さない体制ができた。関電社員も原発事故の怖さを常に思い、気を引き締め続けないといけない。
-規制委は関電の原発に対し、火山灰への対応見直しなど、課題を突きつけている。
火山灰が降った場合、非常用発電機のフィルター交換などの対応が必要だが、何より一ミリでも降灰があれば原子炉を止めることだ。やはりここも「危険を察知すれば原子炉を止める」に尽きる。 (聞き手・今井智文)
<なかがわ・ひでゆき> 1942年生まれ。京都市出身。京都大大学院理学研究科を修了し、72年に福井大工学部講師。91年から教授。工学部長や副学長を歴任した。04年から今年3月まで県原子力安全専門委員長を務め、関電高浜・大飯原発の再稼働や高速増殖原型炉もんじゅのトラブルなどを巡り、県独自の検証をリードした。
<美浜3号機蒸気噴出事故> 2004年8月9日午後3時22分、美浜3号機(加圧水型)のタービン建屋で、放射能を含まない2次冷却水の配管が破損。定期検査の準備作業をしていた協力会社の社員11人が高温高圧の蒸気を浴び、5人が死亡し6人が重傷を負った。破損部分はリストから漏れ1976年の運転開始以来、点検されておらず、水流や腐食によって厚みが減る「減肉」を起こし、当初1センチあった厚みが最も薄い所で0・4ミリになっていた。事故後、関電は原子力事業本部を大阪市から美浜町に移転した。