2018年8月25日土曜日

「避難者を支援する避難者」は何を思う

 自らがフクシマからの避難者でありながら、孤立しがちな他の避難者たちをサポートする側に立って活動する人たちがいます。
 原発事故後から8年目避難生活を送る人たちへの支援が減る一方で、今どんな気持ちで生活しているのか、何必要とされているのか、ダイヤモンドオンラインがその人たちに聞きました
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福島原発事故から8年目「避難者を支援する避難者」は何を思う
ダイヤモンドオンライン 2018年8月24日
2017年3月で福島から自主避難している人たちへの住宅無償提供が終了した。家賃負担は重く、避難生活を続けたいのに、福島に帰らざるを得ない人も多い。原発事故後から8年目の避難生活を送る人たちへの支援が減る一方で、今どんな気持ちで生活しているのか、何を必要とされているのか。自ら避難し、孤立しがちな他の避難者たちをサポートする側に立って活動する人たちに話を聞いた。(取材・文/フリーライター 大藪順子)
 
避難後に孤立  必要だった「話せる場所」
「最近、放射線の安全説を聞く機会が増えてきましたね」
 むさしのスマイ代表の岡田めぐみさん(36歳)は、心配そうにジュースを飲んだ。
 2011年3月11日以後、3歳と1歳の子どもを連れて東京に避難した。お腹には3人目を妊娠していた。自分の被爆が胎児にどのような影響を及ぼすのか、とにかく不安で福島を離れた。都営住宅に入れてもらえたが、そこには小さな子どもがいる世帯がなく、ふと気づくと新しい生活の中で孤立していた
 そんな時、東京都助産師会による東日本大震災の被災妊産婦を受け入れていた「東京里帰りプロジェクト」(現在は終了)を知り連絡。同じように出産を控えた人や、小さな子どもを持つママたちを紹介してもらい、さまざまな交流会にも参加するようになったが、自分が避難生活を送る武蔵野市にいる他の避難者とはなかなか出会えないでいた。
 
 避難生活がいつまで続くのかわからない。
 先が見えない中で子育てし、孤立している被災者たちが武蔵野市にもいるはずだ。そんな人たちが集まり、ゆっくり話ができる場所づくりをしたいと、地域のママたちの協力も得て団体「むさしのスマイル」を立ち上げたのが、1年後の2012年
 まずは孤立している人を誘うことから始めた。
 参加できる年齢を幅広く設定することで社会福祉協議会とも連携し、さまざまな年代の人たちが集い、勉強会を行うようになる。現在も、個人訪問、お茶会サロン、そして福島から保養で来る人たちとの交流会を続けている
 
 避難生活も8年目。子どもたちは東京の生活にすっかり慣れて落ち着いた。「でもこれで終わりではないと思っています」と岡田さん。
2017年3月に住宅無償提供が打ち切られて、生活がさらに厳しくなった被災者たちも多く、家賃が払えなくて福島に帰らざるを得ない人もいます。安全に生活する権利は誰にでもあるはずです。もう(避難生活に慣れて)大丈夫だからと、なかったことにされてはいけないと思う。そのために、国が認めた被害者の一人として、自分ができることはやっていきたい」
 
震災時の子どもたちも成人  不安を口にできる場所も必要
 岡田さんは、NPO法人ふくしま30年プロジェクトに参加し、避難の協同センターの世話人としても活動を続けている。
 そんな中、岡田さんが今一番気になるのが、一世代下の人たちの事だという。
「原発事故当時、『将来子どもを産めなくなってしまったのではないか』と心配していた当時の高校生たちも今は20代。時が経つにつれ、不安を口にすることすら難しい状況になってきています。特に福島県内では口を閉ざしている人が多いのが現状で、『日本では2人に1人はがんになるんだし』とか『放射線は安全だから』『風評被害になるから』と言って、話せない環境づくりがなされていると感じています。自分の不安や気持ちを抱え込むのではなく、話せる環境づくりがこれからもっと必要となると思います」
「最近では、子どもたちを保養キャンプに連れていくことすら反対する人もいて、それを押し切ってまで来る家族もいました。県外に出てやっと自由に話ができたというママたちも珍しくはありません」
 自ら孤立し、さまざまな人から助けてもらった経験のある岡田さんだからこそ、話せる環境づくりを続けたいという。
 
自己責任論やめて SOSを出せる環境を
 松本徳子さん(56歳)は、避難の協同センターの代表世話人の一人。2011年の原発事故直後、6年生だった娘を東京にいる妹のところに避難させたが、4月の中学入学の際福島に戻らせた。5月あたりから鼻血を出す子どもたちの話を聞いてはいたが、県外に避難するかどうかの決心がつかないでいた。そして6月、自分の娘が大量の鼻血を出した。医療関係者である松本さんは、その異常に気づき、娘を再度東京へ避難させた
 
 被災者用の住宅申請を行い、2013年10月末にやっと川崎に移れることになった。幸い仕事は東京の支部で働き続けることができたが、災害救助法による住宅無償提供が2017年3月に打ち切りに。その後も2018年3月までは、月収15万8000円以下の家庭には3万円の補助が出るとされたが、ほとんどの避難者は条件に合わず、補助が全くなくなってしまった。
 どうにか交渉を繰り返し、月収21万4000円以下までの家庭が補助を受けられるようになったものの、それも2018年度からは2万円となり、2019年度はその補助もなくなる。実際に補助金を受けられた人はほんの一握りしかいない。
「補助金を出している限り、福島に帰ってこないのではないかと、県は思っているようですが、子どもたちも関東での生活に慣れた時にまた引っ越しとなると、さらなる負担がかかります。福島に戻りたくても、福島でも賃貸に住んでいた人たち、家を売って避難してきた人たち、被災後に離婚した人たちなど、帰る所がない人も多いのです。自己責任論でこのような被災者たちを切り捨てないでほしいです」
「夫や家族から経済的支援を受けられる人はまだいい方です。県外に避難したいという気持ちを配偶者に理解してもらえないまま子どもを連れて避難し、誰からの経済支援もなく暮らしてきた人たちにもいます。すでに2つ3つ仕事を抱えて必死に生活してきたのに、補助がなくなったことで、さらに追い詰められています。避難の協同センターにSOSを出してきたある方も、そんな状態の中で鬱(うつ)になり、最後は自死を選ばれ、助けることができませんでした。ギリギリになってSOSを出すのではなく、早めに相談をしてほしいです」
 
「避難は正しかった」と 言いづらい国内の雰囲気
 松本さんが活動の基盤とする避難の協同センターは、避難者たちの精神的なダメージの大きさが見えてきた最近、各地の議員とのヒアリングと意見交換を開催し、当事者の声を聞いてもらうことに精を出している。
「新しい生活と割り切れればいいのですが、そう簡単にはいきません。放射線から家族を守るために必死で避難したが、本当にこれでよかったのかという思いに苛まれ、精神的苦痛と戦っている人も多いです」
 
 また、松本さんは、普通ではないことが普通とされていることに危機感を感じずにはいられないという。
「福島では『今日の放射線量は…』と毎日ニュースで流れます。県内での地産地消に対して不安だと言えば、風評被害になるから言わないでほしいと言われます。有名な人が出てきて、放射線は怖くないとキャンペーンをする中で、『心配だ』と声を上げる方が異常だと思われるのです」
「本当に避難することが正しかったのかとの疑問が付きまとっていた」という松本さんは、そんな迷いを抱えながら、2016年にカナダのモントリオールで開催された世界社会フォーラムに参加した。だがそこで、国を越えてさまざまな人々が松本さんの思いに共感してくれたことで、避難は間違っていなかったと確信できたという。
 
「いまだに社会の認識とのギャップにぶつかりますが、だからこそ当事者の声を発信し続けたいと思っています」
 松本さんは、これで終わりではないと伝えていきたいともいう。
「思い切って一歩前に踏み出した時、新しい扉が開くものだということも、身をもって知りました。今では福島に住んでいた時より知り合いも増え、よき理解者も増えました」
 岡田さんの「安心して自分の不安や思いを話せる場づくり」と、松本さんの「当事者の声を発信する」。それぞれの活動は、故郷に帰りたくても帰れない人々の心の安全のために、これからもっと必要となるだろう。